ットの女のように、良人に噛みつき擲り合って、しんまで事がさっぱりするのだったら、どんなに晴ればれするだろう。脳髄の皺がほんの少し多いばかりで、さよは、自分の指一本動かせなかった。彼女は、この苦しさが、擲り合いで片づかないものであるのを知っていた。また保夫は、打たれて打ち返す男ではなく、心に氷のような侮蔑を含んで眉毛も動かさないであろうことを知っていた。彼女は、燃え顫える激情を、ただ熱い数滴の涙にだけ溶して、淑やかに教養ある日本女性の典型のように、二つの手を膝に重ねていなければならないのだ。――彼女は、様々に思い乱れた。「夫婦というものは、どこでもこんな味気ないものなのだろうか。どうかして、体も心も安心して一つになってしまいたい、その判り切った願さえ、黙って堪えて行かなければならないのか」
 さよは、すすりあげながら、親子より親しい夫婦の中などという云いならわしを、絶望を以て思い起した。

        六

 永い、張りつめた沈黙が、森と明るい小部屋に充ちた。
 さよが、時々微に短い身じろぎの音を立てる。――前後の寂寞は、戸外の闇とともに、いよいよ圧力ある深さを増すように思われる。……
 軈て、保夫が身動きをした。そして、濡れているさよの顔を見なおした。
「――顔でも洗っておいで」
 さよは、保夫が、いかにももう峠は過ぎた、という風に云い出した調子に不快を覚えた。彼女は動かなかった。
「……行ってちゃんと顔でも洗っておいで。だいなしじゃあないか。――」
 それでも、彼女が返事もしなければ、立とうともしないのを見ると、保夫は、さよの急所を刺すように辛辣な調子で独言した。
「余程、今晩は調子が妙だな。……」
 彼は、煙草の烟を故意に長く、二ふきばかり電燈に向ってふきかけた。そして、曰くありげにじろじろとさよを視、質問した。
「あれは、いつかい」
 さよは、横を向いたまま、低い涙声できき返した。
「なに?」
「君のあれさ――判るだろう」
 さよは、首を廻して保夫を見た。彼の視線は心得顔に彼女に向って注がれている。さよは、本能的に意味を覚った。それと同時に、彼女は体中の血が、一時に逆流するような憤ろしい衝動を感じた。「何ということだろう! 彼は、自分の云うことを皆ヒステリックな発作だときめているのか。気に入らないことは、皆病的とする男性の暴虐を、この良人まで持っているのか
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