ね、さよ」
 保夫は、煙草を灰皿の上に揉み消し、熱くなってつめよるさよを遮った。
「生活の幸福というようなものは、愛と同じで、一種の信仰だよ。信仰次第でどうともなる。――君なんか、まだまだ生活がどんなものだか知らないのだ。……君だって僕の愛だけは、信じられるだろう? それがお互の生活の万事ではないか」
 彼は、何か云おうとするさよの手を執った。そして、
「さあ、理窟はやめて、可愛いさよにおなり」
と云いながら、彼女をひきよせて愛撫しようとした。彼女は、赧くなって、遂に涙をこぼした。
「そういう風に片づけては駄目。――貴方は、狡いわ!」
 彼女は、手を引こめて、きちんと坐りなおした。
「私だってお互が大切だと思うからこういうことも云い出すのです。愛している、愛しているって、百万遍お互に誓い合ったって、心の観音開きがいつでも行き違ってプカプカしていて、貴方平気? 平気でいらっしゃれるの?」
 さよは、せめてここで「いや、そんなことでは堪らない。そんなことをしては置けるものか!」と云って欲しかった。彼女は、その一言で、心半分は助かっただろう。彼女は、どこかでぴったり、率直な、むき出しな保夫の心にぶつかりたかった。それを願うばかりに、多くの言葉も費すのに、彼は、驚くべき冷静さで云った。
「それは君の想像だよ。――君ばかりが、閑にあかして捏ねあげたものの証拠には、見給え」
 彼は、凱旋者のような眼に微笑さえ湛えて云った。
「現にこうやって一つ家に生活している僕が一寸も感じていないことじゃあないか」
 さよは、我知らず、
「独断家!」
と叫んだ。
「貴方、よくそんな! 自分の判るだけしか人生は、人間の心はないと思っていらっしゃるの?」
「亢奮しない方がいい。――而も、僕は君にとって、決してあかの他人だとは思っていない。少くとも良人だ。良人である自分に、君の……妻である者の大切な心持が判らない筈がないじゃあないか。それだのに、低能でもない僕に感じられないとすれば、気の毒だが、君の方が根拠が薄弱だ」
 さよは、心の歯を喰いしばった。彼女は、出来ることなら擲りつけて、良人を独善的な、紳士的な、冷血な頑固さから突き出したかった。彼は、さよの心が、どんなに苦しんでいるか思い遣ろうともせず、卑俗な自分の頭の正確さに、寧ろ愉快を感じてさえいるではないか? さよは、獣のように呻いた。ホッテント
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