を貫いて志向されているのは、ストリップ・ショウ風ののたうちはないといえ、つまりは日本の社会の一つの時期に生きる人間、女の、意識の覚醒の課題であり、それは、とりも直さず個人と集団を貫くコンプレックスの発見とそこから解放されようとする物語ではないだろうか。

          五

 文学に再現される社会的な人間の典型ということについて、わたしは近ごろ、ひとつの目をさまされた。現代文学が、小市民の文学となってから、われわれは文学のうちにバルザック的典型を見なくなった。それにかわって、ささやかな、解決のない心理葛藤と状況のもつれを読んで来ている。
 社会主義リアリズムは、社会的人間の、それぞれの典型を描き出そうとしているのだけれども、現在まで、わたしたちは比較的小さな典型しかとらえ得ていなかったと思う。それらの典型は、一つの典型であるにしても、そう大してわるくもないし、そう大してすばらしくもない。要するに市民的規模の典型であったと思う。「道標」以後の作品の中にも、いくつかの典型は見出されてゆくであろうが、それらの、多くは市民的スケールであるにすぎない。
 権力からはなれて、つましき良心に立
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