いかねる感情をもったりして、自分の男としての情緒にそれをそのまま肯定しているのはどういうわけなのだろう。
 そのひとの文学理論の立場から云えば、いくらか前進した生活感情がありそうだと思われるのに、思いのほか旧套にこもって、女の生活の苦しみを割合浅いところで見ている例に遭うことも、様々に深く私たちを考えさせることである。
 それらの原因こそは、明治のロマンティストたちをひきずり下した踵の重りそのものであるということは、云ってみればそれ等の作家・評論家自身に、解釈としてとうに理解されていることどもであろう。現在では、そんなことはわかりきったことだが、現実の感情として男は云々と、そこをつよみのように云われているのだと思う。
 女の心持から云って一番せつない、そういうわかったようなわからなさは、何か作家・評論家という仕事の形からも影響されているのではないだろうか。文学の本質と文学の仕事をしてゆく日常の形態というものは現在のような段階ではいつも必しも一致した足どりばかりはもっていない。大体、文筆の仕事は、仕事の形として極めて孤立的だと思う。一人一人が自分の机に向ってやっていて、そのとき書いている
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