界で生きられるということはなくなって来ている。
 婦人作家が女の生活を描くときでさえも、昨今のこの傾向では一つになっている面がある。
 読者としての婦人に向って作家・評論家が何かを語る場合には、誰でも或る程度までは女自身のうちにある様々の向上の欲望や、古いものから脱しようという苦しみの肯定に立って発言していると思う。何故なら、一般の女のひとたちがその作家や評論家の読者としての関係で今日の世の中にあらわれて来ている動機は、何かの形でその女のひとたちの向上心とつながり、自分としての趣味の主張とつながったものなのであるから。
 ある評論家たちは、婦人雑誌で婦人の教養のためにかなりの文筆活動をもしている。文学そのものがつまりは人間の精神の発展と表現との意欲を本質として立っているのだから、意識してそれをはぐらかさない限り、人間生活の歴史から来る社会と個人との不幸に対して文学が無感覚ではあり得ないことのおのずからな形である。
 ところがその反面、恋愛論などで婦人の精神と肉体とに非常に溌溂積極な表現を期待しているような評論家でも、そういう場面よりほかのところで女が活溌であることは何となく肯《うけ》が
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