ている。庶民は、何が下司であるということは知っているものである。ものには程があるということをわきまえず自分の卑屈さを知らない親王が、絶対主義の裏がえしである闊達さで、「トア・エ・モア」という文化人[#「文化人」に傍点]のダンス・パーティーである流行作家の夫人に「さよならダンス」というのを教え、その夫人は、「男も女もお辞儀して――とても気持がいい。なんか貴族になった気持で――。」と語っているのは、ヨーロッパの十八世紀ごろの宮廷の模様が映画などを通じて頭に描かれているからであろう。
 いまの日本の社会の中には、奇妙にずれた民主的愉快さ、逸楽的な生きかたを追う気風がある。日本の皇族、貴族は、人民生活にまじって来たのだが、そういう旧皇族、貴族が自分たちの間にまじって来たことで、日本の一部の自由主義者は、まじって来た人たちを平静な市民生活に馴らしてゆこうとするよりも、その珍らしさに自分たちの方から亢奮して、裏がえった絶対主義を自分たちの感情にどしどし移入させている。日本が隷属の地位におかれ、人民生活は苦しく圧し迫っている。そういう暗い日本、みじめな日本を、笑い踊り、社交することで自分たちの幸福なきょうから追おうとしている人々が、少くない。
 放浪の詩情こそ、そのひとの文学の一管の笛である、という抒情的評価をかち得ているある作家は、日本の小市民の生活につきまとううらぶれとあてどない人生への郷愁の上に財をつんだ。そして、男の子を貰い、学習院に入学させている。「あすこは父兄が、そろっているから」という理由だそうである。日本のニヒリストとして、一部の人々から崇敬されているある文学者も、その貰った息子は学習院へ通わしている。
 都内の小学校の生活は、街と家庭にあふれる社会の悪にさらされていて、十一歳から十五歳までの子供の道義は、めちゃめちゃにされている。それならば十六歳から二十歳の若い人々がめぐり合っているのは何だろう。性的好奇心の刺戟。思うままに金をつかってみたい欲望。まじめな若い精神は、はっきりそういう周囲と抵抗して、経済的な独立とそれと並行する勉学の可能をさがして、苦闘しているのである。ことしは、就職難がいちじるしい。現在、さまざまの理由から労働法規を無視して失業させられている男女は、新しい何かの職業を見つけることがほとんど不可能である。しかし、一人一人生きなければならない。若い
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