しろになって息づまる様な事が千世子にはよくある様に今日もなって、川の上に居ると云う事もせまい橋に立って居ると云う事も忘れてさそわれる様に一二足のりだした。Hは袂の先をにぎって居た。千世子は自分の体が段々と空に上って行く様に思われるほど愉快だった。
自然と云うものを千世子が抱けるものだったら、しっかりと抱えて、千世子が自分で可愛がって居るまっしろなフックリした胸にあとのつくほどだきしめてそのまんま感謝しながら窒息してしまいそうに、又そうして見たくさえ思われた。
Hは千世子の肩をかるく押して歩き出した。
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「別れともないナアこちの人」
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千世子は甘ったるい声で云って橋の方をふりっかえって手をのばした。Hは別に意味もなくそのひらいた手に枯葉をにぎらせた。
夢を見る様にウットリと心がうき出して居る様な目をして居た千世子は、急にさめた様に目を輝かせて立ちどまった。涙がこぼれそうにまでにじんで来た。
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「あんまりひどいじゃありませんか、あんな気持になって居るのにこんな見っともないものをにぎらせなくったっていいじゃあありませんか、すぐわきにソレこんな白い花だってあるじゃあありませんか、ほんとうにひどい方だ、こんなに私をいじめないだってようござんすワ」
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だまって居られなくなって千世子は大きな声で云った。「この見っともない葉ののこぎりの様な線が私のあんなきれいな香り高い絵巻を破いてしまったんだ! 早く土になってしまって居ればこんな事にはならないんじゃあないか」
千世子はその葉をやけにやぶいて下駄で土の中にのめりこむまでふみにじった。
だまって見て居たHはようやく千世子の怒ったわけがわかった。
源さんはHのわきに立って我ままな女王がおつきをいじめちらす様な澄んだ青いかおをして足元をみつめて居る千世子の様子をきづかわしそうに眺めた。三人とも一言も口をきかなかった。そのだんまりの中に神経ばかりが魔物の様にすばやくお互の間を走り廻って居た。
だれが歩き出すともなく三人は歩き出した。
源さんはHをようやっとつかまえたと云う様につづけざまに何かしゃべり出した。
千世子の腹立たしさは中々とけなかったけれ共二人の話には気をとられて居た。
Hは、千世子の先にきかされた事のある落し話でない様な落しばなしをして居た。千世子の口元はついついゆるみそうになって来た。さっきあんなに怒っておいてすぐ仲間入りさせてもらうと云う事は何となく権威をそこねる様でけぎらいの千世子は自分が先に頭を下げる事は出来なかった。笑いそこねた妙にはばったい口元をしてはなれて歩いた。
Hも又「さっきは私がわるかったからサ、もう仲なおりネ」
とは云いにくかった。二人はどっちか早く「もう」と云い出して呉れればとまち合って居た。
千世子は歩きながらHの様子を見た。ふっくりと柔味のある光線をうけてしおらしげに耳朶やくびすじはうす赤にすき通って居た。時々気にしたらしくまっくろな髪を上げる小指の先が紅をさした様に色づいて居るのや、まぼしいほど白い歯がひかる事なんかを千世子は見つけて思わずうす笑いした。
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「私はあの人のあの娘みたいなきれいなところどころに免じて私から仲なおりをしよう」
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わだかまりない気持でこんな事を思った。人が違った様に顔中笑を一っぱいにして二人のそばにかけよった。
三人はかおを見合わせて何とも云えないほどいろんな感情の入りまじった笑い方をした。そしてお互にさっきの事には小指の先でもさわらない様にいくえいくえにもおしつつんで心のすみの方につくねて居た。
千世子がさっき不きげんな様子をしてから源さんの様子はよっぽどうちとけて来たのを知った千世子は何だか源さんのためにわざわざ自分が怒った様な、又その時をうまく利用された様なだしぬかれた気持になった。間もなく千世子は今源さんがどんな事を思って居るかと云う事まで知った。
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「自分でたくらんだ事を自分でぶちこわして居る」
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千世子は自分を鼻の先でせせら笑った。
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「マいいさ、成ったことだどうせ」
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こんな事も思った。
三人は他愛もない事を話合いあたり前の人の笑う事を笑って妙華園に行った。三人は小さい束を作ってもらおうとあっちをさがしたりこっちをさがしたりして居た。
世間知らずの様ななりをして居るくせにすれた眼と心をもつ男達は千世子の事をいろんな風にとった。千世子は、白い服(うわっぱり)をきて自分のたのんだ花を作って居る十九位の男の手の甲にある黒子を見ながら男の姉の云って居る事をきいて居た。
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「いくつ位だろう?」
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と三つも四つも上の年を大抵の男は云って居た。
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「らいてうさんの御けらいだヨキット」
「違うよ、先にあの雑誌に出てた写真にあんなかっこうした人は居なかったよ」
「だってあんな頭してるよ、その年にしちゃあ着物の模様が大きいネエ、何だか分らないナ」
「いずれ女にゃあ違いなかろう」
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その人達は千世子にきこえないつもりでそんな事を云い合って崩れる様に笑った。水ごけをつけて居た人は一寸かおを上げて千世子の頭越しに群れの人達と笑い合って居た。西洋紙を上にかぶせて千世子に渡した。
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「源さんもHさんも、いらっしゃい」
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白いのどをふくらませる様に向うの水草を見て居る二人をよんだ。
千世子は、中から三本こまっかい花をぬいた。Hさんは衿に、千世子はリボンの間に、源さんはもてあました様に人さし指と拇指でクルクル廻して居るのを、
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「あんたはさすとこがないからここへしまっときなさいネ」
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せまい袖口からたもとの中におっことしてやった。三人はあかるい顔をしてあっちこっちと歩き廻ったけれ共、時候のせいでどこに行ってもすきだらけだった。
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「もう五時に近いぐらいですよ。行きましょう、貴方は又かぜを引くんだ、そいでなけりゃあ今夜ねられないかどっちかになってしまう」
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Hさんは千世子のずったショールをなおしてやりながら云った。
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「ほんとサ、ネ、千世ちゃん帰ろう」
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源さんはいかにももっともらしく千世子をいたわる様に云うのが千世子には何とか云ってやりたいほどおかしくきこえた。けれ共せっかく丸くなった気分を下らない事でぶちこわすでもないと思って奥の臼歯でかみくだいてそのまんまのんでしまった。
三人は山の手電車にのった。
(八)[#「(八)」は縦中横]
源さんはやたらにはしゃいでいやがるHさんをつかまえて指角力なんかして居る中に、千世子は瞳を定めて段々とくらくなって行く外を見ながら、
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「ほんとうに男って云うものは簡単な事で安心したり気をもんだりする事が出来るんだ。女は若し自分が片思いにしても思って居る男が外の女と好きそうな様子をして、たった一度位にらみ合いをしたったって、必[#「必」に「(ママ)」の注記]してそんな事に安心させられるほどのんきな気持をもって居るものじゃあありゃしない。よけいにいろんなこまっかい観察をするんだけれ共」
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思うはずじゃあなかったんだけれ共いつの間にか思って居た。
源さんは何だかやたらにうれしかった、すっかり安心したと云うのではなくっても心が軽くなった様に大きい声で話しがして見たい様な気持で居た。
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「四国から九州を御へん路して歩きとうござんすねえ」
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電車がすいて居たんで千世子ははばからない声で云った。
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「随分思いきった……つれてってあげましょうか、私じゃあいや?」
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Hさんは斯んな事を源さんとぶつかりっこしながら云った。
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「いやじゃあありませんけど……この上なしというほどじゃあありませんわ、貴方今までそんな事思った事ない?」
「思わない事もありゃあしませんサ、でもたった一人ぽつねんと行くのもいかがなもんですからネ」
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その時Hの瞳が小供の様に澄んでかがやいて居た、人なつっこい様な輝きに千世子の心の一片方はまぶしそうにパチパチとまばたきをした。
そしてHに向う自分の心の眼がくもって居る様な、又何かをおっかぶされて居るんじゃああるまいかと思われた。
田端に下りるとすぐ千世子は、「何だかうすら寒いようですわネエ」と云ってショールを一つ余計に巻きつけた。Hと源さんとの間にはさまって両うでにつかまりながらくらい陰気くさい道を恐ろしい事に出合う前の様なおじた気持ですかし見ながらたどって行った。
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「こんな道でもいざとなりゃなんともないんでしょうねエ、キット」
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切りわりの道に声をひびかせて千世子は云った。
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「いざっていうっていうのは?」
「マア例えばおっかけられた時とかかけおちの時」
「オヤオヤ偉い事を云い出したもんだ、それじゃあ今もかけ落ちしてると思ってたらこわくはないでしょう?」
「三人のかけ落ちってどこにありますの、それで又自分の家へかけ落ちするなんて……とうていそんな気持になれるもんじゃあありませんわ」
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まじめくさったおどけた返事に三人は大きな響をたてて笑った。
かたまりになって大声にはなして行くんで客待ちの車夫なんかは千世子のかおをすかし見たっきり、
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「いかがでございます御易くまいります、ヘエ団子坂まで……」
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いやにピョロピョロする千世子の大きらいな様子を見せられないですんだ。
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「よっぱらってるとでも思ってるんだ、奴っ!」
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源さんはこんな事を云って石をけりつけた。
足音がするとすぐ、
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「寒かなかったかい案じてたんだよ」
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母親はいかにもしんみりした親しみのある声で云った。
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「有難う、今日は随分面白うござんしたワ、すこしつかれたけれ共――」
「そりゃあよかったネ、も一枚着物を持たせてやりゃあよかったのにってねえ、あとで云ってたんだよ」
「そう、――そんなじゃあありませんでしたワ、とっとっと歩いて来たんですもの。でも裾をうすくしたかもしれませんねえ、この着物そりゃあ歩きいいんですのネ」
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千世子は頬を赤くしながら母親のかおを見て云った。
御飯後三人は母親を中央に据えて今日のいろんな事を話してきかせた。話の中途にHは用のあるようなかおをして西洋間に行ってしまった。
西洋間の皮張りの長椅子によっかかって、目の下にくらいかげをつくってHはうたたねをして居た。
フカフカするカアペッツの上をしのび足して千世子はすぐわきの椅子に腰かけて、ほんとうにつかれたらしくHの目をつぶって居る様子を見た。
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「まつげがきれいだ事」
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こんな事を千世子は思って居た。
千世子は瓦斯を消してスタンドのうす赤い光線をHのかおをよける様にして置いた。すぐその下で本をよんで居たけれ共フット、
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「こんな事をして何だか私がHをまるで恋して居る様だ! そいでも何かまうもんか、他人のために善くしてあげる事だもの」
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そのまんまそうっと室を出て茶の間の二人の仲間に入ってしゃべった。
時々、
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