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「目が覚めただろうか?」
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なんかと思って自分で自分を笑った。
 二時間ほど立ってからHはまぼしそうな目つきをして出て来た。
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「失敬しましたついねちゃったんで……」
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 笑いながらそんな事を云って手の甲で目をこすった様子が子供めいて居ると母親は、
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「ハイ、御目覚、――音なしくめえめをちゃました御褒美にこれをあげまちょう」
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 こんな事を云ってガラスの切子のつぼの中に西洋がしのこまっかいのを一っぱいつめたのを出して来た。
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「キャラメルがありましょうか」
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 Hさんはあまったれる様に云って桃色のと茶色のとをとってもらって、
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「今夜は私も奥さんの子供にして下さるでしょうネエ」
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と云った。
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「うすっきみのわるいほどでかっ子だ、母さんと四つほか年の違わない子だなんて――あんまりずうずうしい……」
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 千世子は軽口を云ってHの手から桃色のキャラメルをさらって行ってしまった。
 夜おそくなるまで千世子は母さんと三人で話して居た。まっかなこの上もない花をまんかなに据えてうす青な光線の中でHと二人きりでその顔を見つめたっきりで居て見たいなんかと思って居た。
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「私はHさんを何とか思ってるんだろうか、私は、ただすきだと云うだけで後ずさりもすすみもしないことをのぞんで居る、どっちに行ってもあんまりよくない結果になるにきまって居る」
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 ねしなに千世子はこんな事を考えた。

 久しぶりで学校に出た千世子は皆からちやほやされて帰るまで妹か子供の様に思ってる友達にとりまかれて居た。
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「こんな事はだれでもがして呉れる事だ、珍らしい内ちやほやされるなんかは有がたくもない」
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 こんな事を思っていろんな御あいそを云う友達に小さなものをあやす様に、ばつを合わせて居た。うけもちの教師は、
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「まだ少し青うござんすよ」
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なんかと云って千世子のかおをわざとらしく見たりして居た。千世子はたまらなくうれしい様な事は一つもなかった、こんな事を思って居た。
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「私が行く、皆がだまったまんま私のかおを見つめながら一人一人平手でソーッと丁寧に頭をなぜて行ってくれる。だまったまんま、かおを見、だまったまんま考え、だまったまんまお互の心がわかって笑う時に一所に声をあげて笑ったらさぞマアうれしい事だろう」
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 帰りには仲の良いK子と一緒にかえった。少しつかれて居た千世子は電車の中でかるい目まいがしてK子によろけかかった。
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「どうして?」
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 K子はいつものふくみ声で内気らしくきいた。
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「何ともないの、一寸」
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 小さな言葉つきで云ってかおを見合せて二人は一緒に笑った、意味もなく無意識に出た笑い――それが千世子には今までになかった――家にかえってもわすられないほどの快さだった。
 それから毎日毎日千世子は考える事のない様なかおをして学校に出て四時頃かえっては本をよんだり書いたり、Hとうたをうたったりして暮して居た。

        (九)[#「(九)」は縦中横]

 三月の末Hの仕事がすんで蓬莱町の家にかえる様になった。その頃千世子は又頭の工合が一寸変になって居たせいか、やくにも立たない書きぬきに夢中になって毎日毎日かんしゃくをおこしながらあくせくあくせくして居た。机にとりとめもなく本を並べたててキョロキョロして居たり、いそがしくもないのにいそがしがって夜更けまで鉛筆をけずったりして居た。
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「一週に二三度はきっと上ります近いんですものネエ」
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 Hはあしたかえると云う日にこんな事を云った。
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「そんな御約束はしない方がいいんですワ、もしそれが出来なかったら下らない気持にならなくっちゃあならず、御つとめで来る様になっちゃあ御しまいですワ」
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 楽譜をうつして居た千世子はピアノの上にペンをなげ出して、うんざりした様にHの顔を斜に見て居た。
「何にも悲しむほどの事じゃあない」と思いながら気が重かった。Hはかわいた目をしてかたよせられた製図台と自分の買って来た花の鉢を等分に見て居た。
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「つまらなくなったら一日中に二度なり三度なりかまわないでいらっしゃいな、キットネ、その内また近いところに行って見ましょうネ」
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 何もかももうきまったんだと云った様な調子に千世子は云った。
 ねてから目がさえた千世子は暮から今日までざっと四月の間の事をいろいろ考えて見た。大変に遠い事の様でもあり近い事の様でもあり、Hはすきな人でありながらきらいな人の様に思ったり「どうしたんだろう」と思うほどいろんな事が考えられた。「Hが私のそばに居る居ないは私の生活に一寸した変化を与えただけの事で何にもそれ以上に私に関係のある事じゃあない――」
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「Hは私がすきだと云う事より以上に進んでもしりぞいてもわるい人なんだキット。そう云う気がする。夢中になる恋なんてものは今の世の中にやたらにあるもんじゃなし、又そうでない恋をしたところでつまりゃあしない。顔一つ赤くしず考え深い目でお互の心を見合ってしずかな心で自然に接し詩を思い歌を思いして満足して居られるほどとびぬけてすんだ思想の恋仲かそれでなければお七の様にまじりっけのない夢中な恋ほかするものじゃあない、なまはんかのついちょっとの出来心なんかで必[#「必」に「(ママ)」の注記]して恋をしたりするもんじゃあない、そんな恋のあとにはきっとにがい見むくのもいやなほど見っともないしがいをおきざりにしてあかんベエをしてにげて行ってしまうにきまってる」
「私はどんな事があってもHを恋はしない、若しそうなったら二人は不幸になるにきまってる――私の心の眼もにぶり目っくされの様になってしまうだろうから……」
「あの人と私とはお互にたすけ合って幸福な様にして行けばそれが一番好い道なんだ。私は夢中な恋は出来ない――さりとても一つの様な恋も私のまだこんな貧乏な頭では及ばない事だからキット神様だってこの様に思ってらっしゃるんだろう……」
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 千世子はさえにさえにさえぬいた頭で斯んなに考えた、考え終るとかるく頭をふってまぶたをすこしすかしたまんままっしろなクッションの中に頭をうずめて聖徒の様なおだやかな清い眠に入ってしまった。
 翌朝目をさました時千世子は何とも云われないかるい歌をきいた様な気がして居た。
 学校に出がけにHはわざわざ寝間から出て来て、
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「もう行くんですか? 早いんですネエ、寝坊したんで今朝は一寸も話せませんでしたネエ、少しかおが青うござんすよ、何か清心丹か何かもつかのむかしていらっしゃい、ネ、一寸、お嬢さんに何かかるいものをもって来てあげて――」
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 わきに立って居た女中に云いつけて、
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「額を出して御らんなさい?」
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といかにも案じて居る様に云った。千世子は男の様に広い額を出しながら、
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「何ともありませんわ、熱なんかありませんわ」せかせかする様に云った。
 女中のもって来た銀丸をはの間につぶしながら、
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「あの御気の毒だけどまってるから御弁当をサンドウィッチにしてネ、少し気分がわるいから御はんをたべたくないから……」
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 女中は少し迷惑そうなかおをしながら茶碗をもって台所の方に走って行ってしまった。
 千世子は柱によっかかってHを見ながら、
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「ネエHさん、今日みたいな日にあんまりあなた私の事に気をつけて下さるもんじゃありませんのよ。わけはなくっても思い出されるもんですし、それに――いかにももう御別れだと云う様でいやですわ、」
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 こんな事を云って淋しい様な笑い方をした。
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「女ってものはかなり年をとっても一日でも家に居た人と別れるなんて云う事は大変きらいな何となく涙ぐむ様な気持になるもんですものネエ」
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 又すぐつづけて千世子は云った、目の中に何かがこみあげて来た様な気持がした。
 Hは一つ一つうなずいて居た、言葉に出しては一言も云わずに一番おしまいに大きくうなずくとかるいため息をついて笑った。
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「何故あの人はあんな引つれた様な笑い方をするんだろう」
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 Hの口元を見て千世子はチラリッと思った。
 千世子の感情の上に重いものがのしかかりのしかかりする様になって来た。敷石を靴のつまさきであるいた千世子は、Hの見つめる眼の中に自分が段々小さくなって行く様に思われた。
 にげる様に門の外に出てホッとした様にたいらに白く光って居る広い道をうつむきがちにあるいた。
 友達は皆、
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「貴方青いかおをしてらっしゃる」
「ゆうべよくねなかったとかおに書いてある」
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なんかと半分ひやかしの様な調子に云った。不愉快な気持をこらえこらえして家にかえると茶の間ではHの笑い声がして居た。思いがけない事の様に千世子は母親にあいさつをしてからHのかおを見た。
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「奥さんもとめて下さる――晩までとおっしゃるからどうせ今日はひまなんだからそうする事にきめたんです」
「だれでもがよろこぶ事ってすワ」
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 千世子はあんまり芝居めいた言葉だと自分でおかしくなってうす笑をした。
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「一寸マア、この頃やたらに露国の脚本によみふけって居るんでまるで科白みたいな事を云う事があるんですヨ、面白うござんす家で芝居のただみが出来るんですもの……」
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 千世子は小さな子供のする様に一寸くびをまげてHを見て笑った。
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「マア、ようござんすヨ、毎日を芝居にして暮していつまでも居られやしないんですものネエ」
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 Hはこんな事を云いながら遠いところに去ってしまったものをおっかける様な目つきをした。
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「夕飯にはお父さまもめずらしくお家だから御馳走しましょうネエ」
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 母親はこんな事を云って行くまもなく台所の方から、
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「八百屋に電話をかけてネエ、アアそうだよ、三枝はまだかえ? じゃあついでにさいそくしとくといいね、ジャガイモは二十位でいいんだよ」
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と云って居るのがきこえた。
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「奥さまっていやなもんですわネエ、毎日毎日ろくに本もよめないでしごとをしたり女中に命じたり小供達のけんかの仲裁をしたりしてばかり暮してしまうんですものネエ」
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 母親のこえをじっとききながら独りごとの様に云った。
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「もっと年をとれば気が変りますよ!」
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 Hは雑誌を見ながら、
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「いくらいやでも女は独立しにくいもんですからネエ」
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 こんな事も云った。
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「私は男と一緒に居なくったって生活は出来ると思いますワ。男が我ままでかんしゃくを起すのをジッときいて居なくっちゃあならなかったり、大きなみ
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