っともない御腹になって利口でもない子供をうじゃ生んで見たり……オオいやな事」
「そいじゃあ若し貴方がこんな人なら一生いっしょに居てもいいと云う様な人が出来たらどうします?」
「そうしたら私はキットその人と約束して死ぬまで別に生活して居るでしょうよ、そいで、会いたい時に会い話したい時にはなしてお互に金銭の事なんか云わないで居た方が私はいいと思います。子供なんか生まないでネエ、馬鹿な子供なんか生んで心配したりするより一代こっきりの方がようござんすよ!」
「それもそうかもしれないけど……貴方みたいに男の兄弟のある人はいいけれ共そうでない人はこまるじゃあありませんか……」
「そんな事大丈夫ですわ、世の中の沢山の女の百人中九十九人半まではお嫁に行きたい行きたいで居るんですもの」
「九十九人半とは? 妙な」
「半分はお嫁に行きたいし半分はお嫁に行っても下らないと思う人があるだろうから……」
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こんな事を云って二人は何だか自分達のまぢかにさしせまって来て居る事の様なかおをして居た。
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「貴方はそいじゃあ良人にかしずく事の出来ない人間だと自分できめて居るんですか?」
「そうじゃあありませんわ、割合に女よりは入りこんで居ない感情をもった男なんかそんなに私がやきもきしなくったってプリプリさせる様な事はしやしませんワ、でも私はお嫁に行った翌日からきのうまでのかおとはまるで別なかおをして何にも思う事のない様に旦那のきげんとりにばっかりアくせくしてるんなんかって私にゃあ出来ない事ってすワ、旦那が我ままを云って怒りゃあツンとしたかおをしてとりあってもやらないでしょうキット、馬鹿な人だと思ってネエ」
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千世子はどんな長い時間が立っても今云った事は変りゃあしないと云う様にハキハキした口調に云った。
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「そう云う気持をもって居るんですかネエ」
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Hはしんみりと云って何か考える様な目つきをしてジっと千世子の眉のあたりを見て居た。
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「私は男にははなれて生活する事が出来るけれ共本とペンとはなれる事は出来ない女なんですもん。やたらに御嫁に行きたがる女の中に私みたいな女も神さまがなぐさみに御造りになったんです、人並はずれの我ままものなんですわねえきっと……」
「…………」
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Hはだまって障子の棧のかげを見て居た。
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「何考えていらっしゃる? 私が御嫁に行く行かないは何にも貴方に関係のある事じゃあないじゃあありませんか、こんな事をそう考えるもんじゃあありませんワ」
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千世子はHの心の上にドッカリと座ってしまった様に笑った。
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「千世ちゃん一寸台所に御いでナ、いい事教えてあげる」
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廻し戸のそとから母親がこえをかけた。
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「何? 今行きます」
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紅い緒にたすきをかけられた様に見える足を自分ながらきれいに思いながら、紫色の煙のこめて居る台所に行った。
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「ここにおいで、そうして私のするのを見て御いで」
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母親は小器用な手をして海老のあげものをして居た。
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「何? それが私に教える事?」
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「オヤマア」と云う様に云った。
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「お前知らないだろう? こんなもののあげ方なんか?」
「知ってますわ、その位の事、母さんは又お嫁のしたくにこんな事教えるなんて云っていらっしゃる」
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キイキイ千世子は笑いながら茶の間にかけもどった、Hは西洋間に行ったと見えてそこには見えなかった。
小声にうたをうたいながら廊下をすべって西洋間に行った、長椅子の上にHはつっぷして居た。
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「どうなすったの? 頭がいたい?」
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Hの頭の弱いのを知って居る千世子はやさしく云った。
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「いいえそんなじゃあない――ちょっとばかり」
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Hは泣いたあとの様なこえで云った。千世子はHの思って居た事が大抵はわかったけれ共それをさける様に、
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「いけない事――少し葡萄酒をあげましょう、そして頭を押してあげましょうねえ」
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戸だなから千世子は小形のグラッスに白いブドウ酒をもって来た。
Hはそれを娘がする様におちょぼ口をしてのんだ。酒に弱いHの目のふちや頬はポーッと赤らんで来た。千世子はHの頭を両手にはさんで一寸の間押してやった。
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「有難う、もうよくなりました」
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低い声でHが云った。千世子は何でもに合点が行ったと云う風に首をふって、
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「こうして居る方が幸福だ!」
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千世子は斯う心の中で云って居た。
台所の器具のぶつかる音や母親の女中に何か云いつけて居るこえを遠くの方にききながら二人はひっぱりあげる事の出来ない様な、深い深い冥想にしずんで居た。
千世子は自分の頭に血がドックドックとのぼって行くのが分るほど考える事がこみ入って来た、目をつぶって手を組んでひざをかかえて身動きもしないで居た。
Hは細い目をあけてととのった調子で考え込んで居る千世子の白いくびにフックリもり上って居る胸に気を引かれた、Hのまだ若い血のみなぎって居る身の中からは一種異様の誘惑が起って来た。
Hは椅子から立ち上ってカーペッツに足をうずめる様に歩き廻った。
千世子はしずかに目をあけると一緒に顔がまっかになった、何の意味だか千世子自身にも分らなかった。千世子は衿をかきあわせると一緒に立ち上って少し足元をふらつかせる様にして一番そばの戸から自分の部屋に入った。波うつ様な心地になって原稿紙に向ってふるえながらペンをにぎってジッと紙の肌を見て居た。感情の走った千世子の心の中に木の肌、草の葉、花の蕊なんかにこもって居る目に見えない物が心をなぜる様にくすぐる様に快いものになって入って来た。
千世子の目から涙がこぼれた、紙の上に丸あるいしおらしげなしみを作った。心の中に「今の心ほどしまった純な創作をどうせ私に作る事は出来ない、この紙はその涙のあとで、下らない字が書かれるよりよろこんで居る――私も又この方に満足して居る」
と思って居た。
千世子が感じて涙をこぼす時は、たった一しずくやけそうにあついのをこぼすかそれでなければ夕立の様に心まで心のそこまでひたりそうにこぼすかどっちかであった。
その時は一しずくほかこぼさない涙であった。千世子の心の中には限りないよろこびと感謝と目に見えないものを祝福する心でみちみちて居た。
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「アアア私は何て幸福なんだろう、私はどうしてこううれしくなれる心をもって居るんだろう」
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ほほ笑みながらくびをふってはね上る様な心になって居た。
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「Hさん、まだ悲しいかおをしていらっしゃる?」
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戸の外からこえをかけた。
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「いいえ、いらしゃい笑ってますよ」
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Hはまるで異った心持になったらしい声で立[#「立」に「(ママ)」の注記]く云った。
戸をあけた時Hは千世子の心を見て何も彼もしった様に笑った。
二人はピアノの前に座ってソナタを弾いたり、ゴンデサードを弾いたりしてかるい気持になって居た。
夕はん一寸前に父親がかえって来た。元気のみちて居る目をしてHのかおを見るなり、
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「ヤア、御いででしたね、けっこうです」
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と大きいこえでいかにもうれしそうに云ってかるく腰をまげた。
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「とうとう又一日御厄かいになりました」
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さっきの事なんかなかった様にHさんは笑って居た。Hが、
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「私はいけないんですから」
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と云うのを無理にのましてうすい葡萄酒によわされてねむがって居るのをつかまえて、父親はうたをうたうやらしゃべるやらして大さわぎをしてた。
千世子は、三人の興じて居るのをわきで見ながら自分の領分にふみこまれた様ないやあな心地で皆の笑う時も大方は唇をかんで居た。
父親のした話の大半はHにお嫁さんを御もらいなさいと云う事だった。
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「貴方もう三十にもなりゃあ早い方じゃあありませんよ」
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母親までこんな事を云った。
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「そうでしょうかネエ、でも私はまだまだもらいませんよ。死んででもと云う人にぶつかるまではネエ」
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Hは少しやけになったような口調で云って居た。
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「他人の結婚の事なんか何故あんなにせわを大人の人ってのはやくんだろう」
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千世子は世間をのぞいた事のない娘と同じ心持で思って居た。
新しく買って来た古物を見せたり、今して居る事の相談をしたり、そうかと思うと、
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「どうですHさん一緒に踊りませんか、うちの奥さまはふとって居てとってもの事だ!」
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こんな事まで云ってはしゃいだ。
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「早いもんですネエ、あれからもうざっと四月たって居るんですから……」
「ほんとうにネエ、もう貴方じき夏の仕度ですよ」
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こんな事を二親は云って居た。Hは時々千世子の方を見ては、
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「云いたい事があるんだけれ共」
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と云う様な口元をして居た。
十一時頃Hはあんまりおそくなると風を引くと云ってかえって行った。
段々遠くなる下駄の音がパッタリと、飾井戸のあたりでやんだ。
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「オヤ」
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千世子は小さく云ってのり出して暗の中をのぞいた。白いHのかおがまっくらの暗の中にういて居た。
何かの霊の様にスーッと心を掠めて通りすぎられた様に感じながら、
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「さようなら、風ぜを引いたりなさらない様に」
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千世子は云うとすぐ涙がにじみ出して来た。「たった一人ぼっちで……」こんな事もつづいて思われた。「アーア」ため息をつきながら重い気持で長い曲りの多い廊下をうつむいて歩かなければならなかった。
(十)[#「(十)」は縦中横]
幾日も幾日も気分のわるい日ばかりが千世子を呪う様につきまとった。朝は大抵にしてミルクをのんだり果物をたべたりして居た。
夜一夜うなされどうしでまっさおな顔をして居る事も珍らしくなかった。
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「又何だか様子が悪い、どうしたんだろう」
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千世子はこの頃やたらに変調な自分の頭をにらみつけながらしたい用事があっても我まんして早眠する様にして居た。気をつけていたわりがいもなく段々悪い方にばっかりなって行った。
物覚えは悪くなる、かんしゃくは起す、やたらに悲しくなる、いりまじった感情ばかりもつ様になってじっとしてものをして居る事が出来ない様になった。弟の飲んで居るじあ燐をのんで居た。目の上が十日ばかりですっかりくぼんでしまった。
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「いやだネエ、又なんかい?」
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母親はげんなりした様子をして学校からかえって来る千世子のかおを見ちゃあたって居た。
あたり前ならもうとっくに寝入って居るはずの夜中の二時頃千世子は自分の体の上に大きなものがのしかかって来る様に感じる。にげようとしてもにげられずもが
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