いて居るうちにつかれてね入ってしまう。
翌朝寝間着をたたんだ女中が云ったと見えて学校からかえるとすぐ母親は、
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「お前マア、この頃は寝あせをかくんだってネエ、気をつけなくっちゃあいけないじゃあないか」
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なんかと云った事もある位わけも分らず千世子の頭はいくらねてもねてもつかれて居た。
御のぼりの立った日は千世子は縁側で高い竿のてんぺんにまわって居る矢車を見て居る間に変になって土間にころがり落ちてからズーッと本とうにとこにつく様になった。
寝はじめてからはもう一月も二月も病んで居る人の様に、救けられないじゃあはばかりにさえフラフラして行かれなくなった。千世子は病気の時いつもする様にきれいな様子をして居たけれ共先よりは重いと見えてじょうだん口もきかずにぶい目で天井の木目を見て居たり人の立ち働くのを見たりして居るのが多かった。
ちょくちょく来るHは、いつでも千世子の床のわきに一寸の間でも来て何か千世子の気に入る様ななぐさめの言葉をのこして行った。
時には長い間だまってまくら元に座って、ひくい声でうたをうたってきかせたりして居た。
千世子がきのうより悪くなって気のぬけた人の様に唇を少しあけて胸をはだけて夜着からのり出してあてどもないところを見つめて居た時、忍び足をして来たHはわきに座って居る母親に小ごえで云って居た。
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「おそく失礼ですけど、きのうあんまりよくないってでしたから今夜はよそに出かけたんですけど気になって御よりして見たんです。やっぱりいけないんですねエ、どうしたんでしょう、こんどよくなったら転地でもさせてあげなくっちゃあいけませんネ、今が一番大切な年だのに……」
「どうしたんでしょうかネエ、父様なんかそりゃあもう大変なんですよ、案じて。今馬鹿にするのはあんまり惜しいと云ってネエ」
「馬鹿になるなんて――そんな事は有りませんけど頭[#「頭」に「(ママ)」の注記]まく炎でも起すと悪うござんすネエ、頭ひやしてあげては?」
「それまでにしないでもいいでしょうがネエ」
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フッと打たれた様にハッキリした千世子は背骨の一番頭に近いところがきりでもまれる様に痛むのを知った、脳膜炎の徴の一つだといつかだれかにきいたのを思い出しては身ぶるいをした。
目の前には、すっかり馬鹿になった自分が元の完全な頭だった時苦労して書いたもの、あつめたものを笑いながらやぶいて居る様子だの、夜着の衿をかみかみうめきながら死んで行く自分の心持を想像してどうしてもそれからのがれられないきまった時の様にボロボロ涙をこぼした。
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「どうしたんだい?」
「どうしたの?」
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二人はしずかに柔かくきいた。
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「イイエねエ、私このまんま死んだり馬鹿になったりしちゃったらほんとうに可哀そうだと思ってネエ」
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千世子は泣きじゃくって居た。母親はとりあわない様にわきを向いて袂の先を見て居た。
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「そんな心配をするのは御やめなさい、私の心ででもなおしてあげるから、朝の御祈りの時をのばして貴方のために祈って居るんですよ私は――、こんな若い人をだれがだまって死なせるもんですか」
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Hはいかにも心からの様に真のある声で云って千世子の額に落ちかかった髪をあげてやった。千世子はすかされる小供の様にだまってそれをきいて居たがおわるとかるく合点をして眠入る様にソーッと目をつぶった。
それから十日ほど立って寝はじめてからざっと二十日足らずで起きて歩いてもフラフラしない様になった。頬のあたりはかなりやせてふだんより涙もろくなって居た。
母や父はもう四五日したら小田原に行ったらいいだろうと云って居ながら、
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「お前がもっと二十でも越してでもいれば幾分かは安心だけれ共今の年の女を一人で出すことも出来ないしネエ」
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こんな事を云ってのばして居るうちHや父にすすめられて小さい弟をつれて女中一人と母親も行く事にきまった。きまった日っから母は急にそわそわし出して弟の着物をそろえたり、自分の羽織をぬったりして毎日毎日供について行く女中と一緒にあくせくあくせくして居た。
皆の働く中でポッツンと千世子はもって行く本や原稿紙なんかをひねくりひねくりして居るばっかりで何をどうしていいんだか分らない様な気持で居た。
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「まだすっかりなおって居ないんだネエ、どうしていいかわからない様になるなんて――」
「何をしていいか分りゃあしない」と云ってかんしゃくを起すのを見て母親は斯う云った。
「どうだね、この分じゃああしたもかなりあったかそうだから行っちゃあ、送って行ってもあげられるし」
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父親がこんな事を云い出した。
二人は何かしきりに話し合って居る内に行く事にまとまったと見えて女中にドレッスケエスを出させるやら、小田原に電話をかけるやらして父親は時間表を見て居た。
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「ちいちゃんもう御ねかえ、あした行くんだってサ、そのつもりで御いで……」
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とまっしろい中にうずまって居る千世子に声をかけた。千世子はひよっこの様に目をパチッとしたっきり返事もしないでザワザワする空気の中にひたって居た。
Hと一寸も会わずにたとえ十日か二十日の事でも行くと云う事は何だかそれっきり長い間会われないものになってしまいそうな不安がおそって来た。
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「今夜でも来ればいいのに――それでなければあしたの朝早くでも――」
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こんな事も思って居た。
青い海とがけの多い箱根を見て単調に暮す海辺の生活を想って見たり、海の面には陽炎が立って居るだろうの朝起きるとすぐむれた足をひやっこい水にひたす時の気持なんかをたのしい気持で思って居た。若い女がだれでも感じる様に旅に出る前夜のわけもわからないワクワクした感じにとらわれて居た。
その晩は安眠する事が出来ないで早く眼をさました時、母親や女中達はもうコトコトと何かして居た。寝間着のまんま千世子は自分でかたをつけなければならないものに手をつけ始めた。
すき見されるのを案じる様に千世子は書いたものの入って居る文庫に鍵をかけ、出て居るのを皆本箱にしまって妙にガランとした部屋の中をひっこしをする時の様な目つきをして見て居た。
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「千世ちゃん入れるものはもって来るんだよ、もうすっかり私達の方は出来たんだから……」
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千世子は斯う云われるともう一週間もかかってきめて置いたものでありながら何となし不安心な気持がしてあっちこっちとせせったあげく、入りもしない書きぬきなんかをつまみぬいてヨチヨチした神経質な目つきをして母親にケースの中につめてもらった。大急ぎで部屋にかけもどっても、何にもする事のない千世子はポカンとあてのない目つきをして庭の何となしほんがりした空気の中に段々と青くなりまさって居る葉の輝きなんかを見ながら、こんないい気候になっても青っしょびれて居る自分の体を周りから段々おしつけられる様に感じて居た。
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「Hが来ればいいのに、――私があっちに行ったまんま死んだらどうするんだろう」
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千世子は訳もなくこんな事を独言した。
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「私もしあの人の恋人だったら一寸の間でも走って行って会って行くんだろう」
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こんな事も思った。
思ってる様な思わない様なとりとめもない様子をして居るといきなり人の足音がしたんであわててふりっかえると後にHが目つめたかおをして立って居た。
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「マア」
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千世子はもう少しでHにとびつきそうにした。こんな事を思って居た時こんなかおをして居た時Hに来られたと云う事はたまらなく嬉しい事だった。
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「マア、一寸も知らなかった、いつ? ほんとうにマア」
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こんな事を云って千世子は嬉しい時によくするくせの両手で頬を押えながらHの衿の合せ目を見て居た。
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「そんなにおどろいたんですか? 何の気なしによったら午後からお立ちだってネエ、今日は気分が少しようござんすか?」
「エエ好いにゃあいいんですけど、きのうっから何とはなしに興奮して居るんでかるい目まいが一寸する事がある位、――それに一寸気にして居る事があったんで……」
「何、気にしてる事? まさか日が悪いなんてんじゃあありますまい」
「なんぼなんだって――マアこうなんですの。私がネ、貴方に御目にかからずに今日たってあっちに行っちまいましょう、そうして急に悪くなったっきりになっちゃったり大浪にさらわれてしまったりするときっとどんなにか悲しいだろうと、それに私若しかすると死ぬ時に、
『Hさーん』
て云いやしないかって……」
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千世子はそう云って笑った。
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「マア、そんな――でもマアようござんしたネエ、私が手紙あげたらあんたも下さる? ネ」
「そんな事分るもんですか、それにかくれてなんかかいてもしようがありませんし御義理に書くのも私はすきでないんですもの……」
「そんならなるたけ、ね? これからの海辺はようござんすネエ、静かで……あんまりいろんなものを書いたりよんだりしちゃあ、いけませんよ、勉強するんじゃあないんですよ、馬鹿げた様な気持になって遊んで居ればいいんですもの……土曜から日曜にかけてお父さんが行らっしゃるんだろうから私も都合がよかったら上りましょうネ」
「ほんとうにいらっしゃる? でもあてには出来ないこってすワ、二十日ほど貴方の顔に合わせる人がないかも知れませんわネ」
「エエほんとうにネ、今日よりも見違えるほど好いかおの色で二十日立ったら帰っていらっしゃい。キットネ」
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二人は立ったまんまこんな事を話し合った。
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「Hさんも千世ちゃんも西洋間にいらっしゃいナ? お茶を入れましたから……」
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母親が大きいこえで云ったんで千世子はHを後から押して西洋間に入った。
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「千世ちゃんお前のハンカチーフが二枚ほか入って居ないから、名の縫いつけてあるのを五六枚出して御出」
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と云われて銀の錠をカチャカチャ云わせて納戸の西洋箪笥の二番目の引き出しをあけた。沢山入って居るハンカチを一つ一つよって居る間に茶色のインクでこまっかく何か書いた青い紙があるのが目についた、それは母親のもつ麻の小さいハンカチの間にはさまって居た。うす笑をしながら好奇心にふるえながら人さし指と拇指との間にはさんでぬき出した。それは四つにたたんで両面に書いてあった。その書かれた字一字を見て自分の所にあててよこした飯田町の信夫からの手紙だと云う事もその書いてある内容も想像する事が出来た。
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「どうしてこんな手紙を書く気になったんだろう?」
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千世子はこんな事を思って顔色一つ動かせず落ついたおだやかな心でそれを見始めた。
「いかにも恋文らしい恋文」千世子は自分より三つも年上の男がよこしたものでありながら年下の男に思いをかけられる女の様な目つきをしてその文の批評をした。
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「こんな恋文で顔を赤くしたり、涙をこぼしたりするほど私の感情は世間知らずなシムプルなもんじゃあない。私が何にもあてのないものに今恋文を書くとしてもこれよりは感情の表れたものが書かれるけれ共――私が若しあの人の恋人にでもなろうものならきっと失望する結果を起すにきまってる――彼の人の恋人になるには私の頭が荷に勝ちす
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