ぎて居る」
[#ここで字下げ終わり]
 そう思いながら千世子は「恋を恋して居る時が一番悲しさも嬉しさもすきのないまじりっけのないものになって感じられる」と信夫をさとす様に思った。
 手紙をもとどおりたたんで、先のところにはさんで引き出しをしめるとかるく頭をふって笑いながら西洋間に行った、何にも知らない母が「随分かかったんだネエ」と云ったのにも只笑ったばっかりであった。
 深い椅子によりながら立つ三時間ほど前のおちつかない時間に自分の心をこめてとにかく書いた文を女からこんな気持でよまれると信夫は想像さえすることが出来ないに違いないと、Hの森の様な髪を見ながら思って茶化した笑いさえもらした。
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「私位の年ならこんな文なんかよこされるとまっかになってしまう筈なんだが……」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな事を思うとフイと道化た気持になってしまった。すっきりした棒縞のお召を着た上に縮緬の羽織を着て、千世子はHと父親と弟とで白山から電車にのった。

        (十一)[#「(十一)」は縦中横]

 電車にゆられながら千世子は何となくHとはなれてしまいたくない様な、一所に一日でも行って見たい様な気持になって居た。車で来る筈の母親を待ち合せて、父親の切符を買うのをジッと見て居た千世子はわけもなくさしぐむ様な気持になった。千世子の一っかたまりはプラットフォームを早足にあるきながら赤帽のとって置いてくれたまんなか頃の二等車に入った。
 からっぽで、千世子等の五人丈ほか乗る人はないらしい様子だった。一番はじっこに座をとった千世子はHが棚の上に手荷物を置いたり、千世子の薬を入れた袋がたおれない様になんかと父親と二人で動いて居るのをしずかに見ながら「Hなんか動かないでジーッと私のかおを見つめて居ればいいのに……」
なんかと思って居た。
 車掌がもう発車に間もございませんと注意して行くと、母達は今更らしく送ってくれた礼やらひまがあったら来る様になどと云って居るのを返事しながら下りて下に立ったHは今まで一寸も気のつかなかった袂から、今までよく「古い方がいいからさがして買いましょうネ」って千世子の云って居た樗牛の五巻を出して、
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「これをおよみになる様に――いいでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
って千世子の手にもたした。
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「マアどうもありがとう、――ほんとうに何よりですワ、先から云ってたんですものネエ、これ貴方の?」
「エエ、去年だか買ったんでした、一通りよめば専門にして居るんじゃあないんだからどうでもと思ってつくねて置いたものだから……線や点がうってあるかもしれませんけどマアかんべんしっこですよ」
[#ここで字下げ終わり]
 Hがこんな事を云って居る時列車は動き出した。
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「ジャさようなら、御大切に――」
[#ここで字下げ終わり]
 Hはこう云って帽子をとった。
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「わざわざおそれ入りましたなア」
「ほんとうにネエ、どうも」
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 両親はこんな事を云ってまだ速力のにぶい列車について歩いて居るHに礼を云って居る間、千世子はHの目ばかりを忘れまいとする様に見て居た。
 一寸速力が速くなった時千世子はズーッと体をのり出して、
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「ありがとう――さようなら」
[#ここで字下げ終わり]
と大きなこえで云って立って帽子をふって居るHを見えるだけ見て頭をひっこめた時いかにも旅に出る様な気持になった。
 すみっこに体をおしつけてHからもらった本をわけもなくくって見た。まんなか頃にHが満州を旅行した時に蒙古の羊の群が川の家鴨をおって居るのをとった写真が入って居た。いつだったか病気で居た頃見せてくれた時、「いい事、いかにもお互のものの感じが出てますネエ」って云ったのを覚えて居てだろうかと思って見たりした。五つ六つステーションを通りすぎてから母親がこんな事を千世子に云った。
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「お前は何となくつかれたらしいネエ、少し景色を見るか眠るかするといいだろう」
「そうした方がいいよ、青いよ」
[#ここで字下げ終わり]
 父親までこんな事を云って居るのが千世子は自分の心のそこまでみとおされた様なつまらない気持になった。千世子はお義理の様に目をつぶって母親のかたにもたれかかった。
 フカフカの肩にもたれかかって単純な様で意味のある様なカタカタと云う音を耳のそこできいて居る内に少し眠のたらなかった千世子は包まれる様になっていつの間にかフンワリと夢の中にとけ込んでしまった。
 一人手にまたいい気持になって目をさました時もう四つばかりで国府津につくところまできて居た。
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「よくねて居たネエ、サッパリしたろう顔色がよくなった」
[#ここで字下げ終わり]
 母親は父親と顔を見合せて笑いながら千世子の髪のへこんだのをふくらしてやったり、袂のはなればなれになったのをそろえてやったりして居た。
 女中は小さい弟に干アンズをパンの間にはさんでこまっかく一口にたべられる様にきっては口に運んで居た。それをあどけない目差しで千世子は見て居た。母親達はこないだっから問題になって居る玉川の地所の事や、持主のあこぎな事やら仲に立って居る男の半間な事やらを笑い合って居た。
 その話をきき本と景色も弟のパンをたべるのをも見してまとまらない散り散りの気持で千世子は停車場に下りるまで居た。
 停車場から連絡して居る湯本行の電車にのった時千世子達より前にのって居た小田原の土っくさいお話にもならない様な芸者が三人ほど居た。そういうものにむかうといつもする通りに千世子は又女王の様なきどり方をした。一足はこぶにでもいかにも都にそだった娘らしく又つき合になれた女の様に様子をととのえた。
 三人の女達は愚かしいみっともない目で千世子のツンとした着物の着方だの髪の結い方だのを見た。そうしたあげく、千世子のもうとっくに知って居る事でありながら知って居ないつもりで手の形で千世子の批評をして居た。
 母親は、
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「随分何だネエ、私でももっといきだよ」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな事をささやいて、十も若い娘がする様に千世子を小突いた。千世子は目で笑って母親の横がおを見てから三人の商売人を見た。頬の丸味も目のきれいさも母の方が倍も倍も立ちまさった考え深さと美くしさをもって居た。着物でも持ちものでもどっからどこまでが母の方が美くしかった。
 千世子はわけもなくうれしくなって肩をゆすって母親の肩に自分の肩をぶっつけた。三人の女は千世子を千世子は三人の女をお互に女にあり勝な批評的な目で見合って居た。
 千世子の一隊は養生館前で車を下りて迎に出て居た男が沢山なトランクやドレッスケースを荷車にのっけて波の音のきこえる方に砂道をサクサク云わせながら引いて行った。その男はお世辞よく主人夫婦が大変まって居る事小供達が東京の話がきかれるとたのしみにして居る事なんかをかるい調子に話しては高く笑って居た。

        (十二)[#「(十二)」は縦中横]

 千世子達の姿が店のガラス戸にうつった時台所でたすきがけで居た主婦は、
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「マアようこそ――ほんとうにお待ちして居たんでございますよ」
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と遠くの方から子供達をつれながら云って出て来た。
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「エエ又御やっかいになります、これが少し頭を悪くしましたんで……」
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 母親はこんな事を答えてお互に若い時から知って居る二人ははてしのない様におじきのしっくらをして居た。千世子は遠く青くひろがって居る海の面にすいよせられる様にその方ばかりを見て居た。
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「ほんとうにネエ、御可哀そうな、少し御やつれなさいましたネエ」
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と主婦が云って自分の顔を見て居るのを千世子は知って居てもそっちを向こうとはしなかった。
 先に来た時と同じ二階に座った千世子は気が遠くなるほど青い空と青い海の境が紫にかすんで居る事や、くだけるまっ白な波の様子、遠くひびいて来る船歌の声なんかがうれしかった。
 らんかんによっかかって千世子はいつまでもいつまでもその景色を見とれて居た。
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「着物をきかえて浜へ行くんだ、早くおし」
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 父親はこんな事を云って千世子の羽織を後からぬがせた。紫矢絣の着物に赤味がかかった錦の帯を小さな横矢の字にして赤い緒の草履をはいて千世子は深い砂を一足ぬきにして歩いた。
 若がえった様に父親は小石をひろってなげたり、小さい弟と一緒に波頭とおにごっこをしたりして居た。それをよそ事の様にして千世子は大きな自然の前にうなだれて居た。病み上りのふだんにもましてセンチメンタルになって居る千世子の心の底にドドーッドッドッという波音は厳とした威厳をもってしみ込んで行った。
 波のよせるごと引く毎に洗われる小石は、ささやかな丸い輝をお互に放して、輝きと輝きとのぶつかるところに知る事の出来ない思いと音律がふくまれて波の引く毎にはささやかな石がお互の体をこすり合わせうなずき合って無窮の自然を讚美する歌を誦して居た。
 千世子はこの微妙な意味深い音にききほれてしばらくの間は夢中に、それからさめた時にはこの音にききほれる自分が人間だと云う事は情ない事に思われた。
 暗闇の中に物をさぐる様に千世子はどこかにとけ込んでその姿をかくした自分の今まで持って居たほこりをたずね廻った。つかまるものもつかまるものも皆自然に対する感謝と云うものばかりであった。心の中、体の中を感謝のかたまりにして入日の赤くなった空と、満潮に青さのました水面を見まもって、尊い、ととのった芸術的な顔つきをして千世子は時の立つのを知らずに座って居た。
 海のひろい胸は刻々にその鼓動が高かまって行った。さっきまで修道女の様なその胸の様な鼓動を打って居た胸は、その一息ごとに世の中のすべての悲しみと嬉しさと幸と不幸をすい、又はく様にたしかにトキーントキーンと打ち始めた。青さはその鼓動の高まると共にまして行った。
 若い処女が若い男の息の下に抱きすくめられたその瞬間の様な海のはげしい乱調子な鼓動はそのトキーントキーンと云う音を空の末地球全体にひびかせて千世子の前にせまって来た。
 それに答える様に、千世子のうす赤いふくらんだ胸の鼓動も乱調子にやがては狂いそうにまで打った。けれ共千世子は動こうとはしなかった。水はすぐ前によせたり引いたりして白い歯を出しては千世子の心をほほ笑んで又遠い青さの中に混って行った。
「こんなにまで苦しいほど私は自然に感じて居る事が出来る」と思った。千世子は身をおどらして青さの中に身をしずめて見たいほどうれしかった。
[#ここから1字下げ]
「アーアア」
[#ここで字下げ終わり]
 堪えられないほどみちた心になった千世子の躰はキラキラとやさしげにまたたいて居る砂の中にうずまった。砂は四方からサラサラ、……サラサラと響きながら千世子の身体をうずめて行った。
[#ここから1字下げ]
「アアアア」
[#ここで字下げ終わり]
 かざりのないいつわりのない千世子の心の声はしずかな空気に小器用な音波になってドッかに消えてしまった。
 迎に来た女中にひっぱられて気ぬけの様な顔をして千世子は宿にかえった。
 海辺に来たらしい気持のする食卓についてからもまねく様な潮なりに心をとられてまっかな箸の先にまっしろな御飯を一つぶずつひっかけてたべたりして居るほどであった。
 夜はかなり暗いあかりの下でほこりっくさい都になぐさめる人もない様にして一日の仕事につとめて居なければならないHのところに絵葉書に短かいたよりをしてやった。
 白い被いをすみから隅までかけて気持の好い夜着にくるまって潮の笑声を子守唄にききなして眠った千世子は六時に起きるまでにHの夢ばかり見て居た。
 寝床から出
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