るとすぐ浜に出てひやい水に足をつけた。眠りからさめた許りのムシムシした足はやわらかくくすぐられる様に感じて居た。
 そうして居る間に気持もはっきりと迷わない心でものを見る事が出来る様に思えた。
 まだ何にもさわらない白いふっくりした手の掌にひかって居る水をすくって一寸唇につけて合わせて居た指をかるくゆるめると、糸の様に水は細く五つ色にまたたきながら落ちて行った。
 こうして一日を始めた千世子の日はその日中嬉しい事ばっかりであった。
 その翌日も翌日も海を見、海に話して日を送った。そうして顔の色も日の立つごとによく貧亡に[#「亡に」に「(ママ)」の注記]なった頭も目に見えない少しずつとまされて行った。
 囲りの旅客を観察するとか批評するとか云う余裕のないほど千世子は海にきをとられて居た。
 おきるとからねるまで浜に座って暮して居るのが何よりうれしいほど千世子の心は子供げなものになって居た。読むつもりでもって来た本等は床の間のケースの上につまれたまんま時々に吹く海風に軽い表紙の本なんかはハタハタとひるがえったりして居るばっかりだったし、又原稿紙も一字もうずめられて居なかったのを母親なんかは却って、
「何よりの事だよ」と云って居た。
 夕方近くなった頃、千世子は芸者の多い小田原の町を歩く事をしたがった。
 それはもうよっぽどここに居なれた頃になっての事だったけれ共、ろくでもない、時によると目をつぶりたいほどの顔やなりをした芸者をつかまえて、紫のハンケチなんかをくびに巻きつけた磯くさい男達ややたらに黄金色にピカツイて居る男達が多[#「多」に「(ママ)」の注記]愛もない無智な顔をしてたわけて居るのや、箱根の山の夕方の紫のもやの中にういてあかりのチョビチョビともって居る路を駒下駄をカラコロと「今晩は――」と云って行く女の姿を見るのなんかは山の手に東京に居ては住んで居る千世子にはかなりめずらしい事でもあり又いろいろな複雑した生活の状態を教えられる様であった。
 小雨のする日に千世子は紺の蛇の目に赤い足駄をはいて大きな模様の着物を着て電車の車庫のわきに本を買いに行った。
 雨にひまな芸者達はまどから千世子の様子をのぞいては大股にシュッシュッと歩くのを見て、
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「色気がないネエ」
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と云ったり、
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「あれが東京の歩きっぷりなんさ」
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と云ったりして居た。
 そんな事にはもうなれて居る様にうつむきもしないで正面を見て歩いてどこまでも行った。すれ違う男達が一足か二足ぐらいひろくよけて通る事も千世子には、
「フフフフ」と笑いたい様な事だった。
 ひろい店にずっと入るとすぐ大胆な目つきをして棚の上から台の上までの本を一通りズーと見廻す様子を、帳場に座って居た番頭は目を大きくしながら、
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「入らっしゃいませ、どうぞ御ゆっくりと……」
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 とちった様な口っぷりをして居た。
 その日は「その前夜」と「お絹」を買って帰った。
「東京より本が高い、ろくなものもないくせに」こんな事を道々考えて居た。
 晩はまっくろい海が目の下に見えるベランダに出てあかるい電気の下で買って来た本をよみ始めた。
 けれ共何となく囲りの気分とよんで居る本とがつり合わない様に思われてしかたがなかった千世子はわざわざサロメをとりかえてもって来た。
 そうして電気を消した暗い中に自分の鼓動と海の鼓動とくだける波の白さと自分の顔の白さばかりがある中で、低い厳かな声で暗く強い鼓動を打って居る海の面に千世子は、Roll on, thou deep and dark blue Ocean―roll! と尊い詩の一節をなげてはてしもしれない様な冥想にふけって居た。
 綺麗な夢の様な気持がさわがしい管絃の音に破られて現実にかえった時、そのごく早い気持の別れ目の時に千世子はHの事が青い光りものになって目の前をよぎって行ったのを知った。
 さわがしい音の中に自分のしずかな心だけをソーッとかこって置く様にして働く事も嬉しがる事も一人でして居なければならないHを一人の人間として考えて居た。いろいろと思って居るうちにいつだか、
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「私は形式は沢山の人達の中にかこまれて生活して居るけれ共それは皆私からはなれると生きて居られない人間達が死にもの狂いでかじりついて居るのにすぎないですもの――精神的に私は嬉しい時でもかなしい時でも All alone で居なくっちゃあならない……」
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と云った時に、
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「不愉快な気の合わない二つの精神がいやでも応でもに集って居るよりは、わだかまりなく思いたい事を思える一人の方がいいじゃあありませんか」
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って自分の云った事を思い出した。
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「どう云う点から云っても彼の人の年になっては奥さんがなくっちゃあ可哀そうだけれ共――」
「あの人はまだごくの若い心で居た時に思いがけない苦い悲しさを味わったから結婚なんて事を只感情的に考える事が人並より出来にくくなって居るんだ!」
「でも私はあの人の生活に手をさわってはいけないんだ、そうすれば悪い事が大抵は起るにきまって居る」
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 こんな事を思って居た。
 千世子はたった一人の男のために自分の生活の状態が変調子になって来たり、こびりついてはなれない感じをうけるなんて事はこのましくないいやな事だった。
 いくら何と云ってもHがすきだと云う事ばかりは千世子のどんな心ででも打ちけして、
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「いやそうじゃあない」
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と思わせる事は出来ないものであった。今まで思いつづけて居た事を拭ってしまおうとする様に空に覚えて居るサロメの科白をうたの様な声で云った。
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「ヨカアンナや、あたしはお前の体にほれてよ! お前の体はまだ鎌の入った事のない野原の百合の様に真白だ。
 お前の体は山の上のゆきの様に――」
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 目をつぶっていつの間に身ぶりまでして居た千世子は後の方から来る足音のまだ若い男だと云うのをさとるとすぐにスウィッチをぱッともちあげて、あっけにとられて居る油じみた顔の男の前を斜によぎって部屋に入ってしまった。
 母親は千世子のかおを見るとすぐに、
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「あした若しかすると小供達と源さんとHさんが来るってさ、四時にここにつくって……」
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 いかにも嬉しそうな声で云った。
「そう――いい事ねえ、迎に行ってやりましょう」そんなでもないと云った調子に千世子は云った。
 よみかけの雑誌をもった母の顔を見て千世子は時と云うものを考えなければ居られない様な気がして居た。
 その晩は随分おそくなるまで母親は千世子に自分の若かった時の事、姑が辛かった事などを話して居た。姑の辛さなどは自分の生涯うけずといい苦しみだと千世子は信じて居た。
 翌日四時までの時間がかなり長く感じられた。
「Hが来るかもしれない」と云う事が千世子の好奇心をそそった。
 割合にまち、割合によろこんだけれ共、電車から下りたのは小供達と源さんきりであった。
 子供達は母と小さい自分の弟をとり巻いて、こないだのひなのかえった事からバラの一輪さいた事から私の部屋に鼠の出る様になったとやら障子の破けのふえた事まで話してきかせた。
 母親は笑ってその報告をききながら一人一人の手をひっぱって見たり頭をこすって見たりして居た。
 今までにないにぎやかさではんぱな時候で客は沢山居ながらもしずかなこの家に高い笑声をひびかせて居た。四方をガラスではった娯楽室に皆丸くなってトランプをする、歌をうたう、千世子は少し調子の変なオーガンさえ弾いたほどであった。
 ここの家の小供は千世子の女なのに気をかねて居たのが、いかにもうれしそうに三人の弟の間に二人の子がはさまってほっぺたを赤くして居た。
 十二時頃までも皆で笑いどよめいて居たけれ共源さんが一番先に寝たのをしおに今日だけお客の小供達は下のひろい座敷に寝に行った。
 母は日記をつけ、千世子は短かい感想をかきつけたりして物足りないすきだらけの気持で床についた。
 次の日いっぱい砂の中をころげ廻った小供達は又源さんにつれられて東京に行った。行くまで源さんは千世子と二人っきりになりたい様なかおをして居るのを知ってわざと千世子はよけよけして居た。
 急に嵐のないだあとの様になった部屋の中に居られない様にはだしのまんま千世子は裏から砂をすべって浜に出てなめらかにひんやりする砂に座った。何と云う事もない悲しみは千世子の心の中いっぱいになって居た。
 こんなうすねずみの色の中にこんなこい色の自分の身体をひたして、こんな気持で泣いて居ると思う事はいかにもうつくしげななよなよしげなものであった。
 しみじみとホロホロ――ホロホロ――と散って行く涙の一粒ごとに思いをはらんで居る様に感じて居た。まるで幼子の様にわけもわからない事に泣きじゃくって居た。泣きながら千世子の心は悲しみながらこの上ない歓喜に小おどりして居た。
 夜つゆにしっとりと長い袂や肩のしんみりしたつめたさになった時千世子は顔いっぱいに笑いながら部屋にかえった。そうしてじきにねてしまった。
 三日たったのぼせる様な日に、千世子は十四になる男の子に誘われて一寸ある小峯の原に蓮花をつみに行った。その男の子は大抵の時は少しこごみ勝に下を見て神経質らしい額の大きな高い唇の馬鹿げてあかい子だった。細い白いくびすじに小さく渦まいて髪のかかって居るのは千世子にたまらないほどうれしい事だった。まだ六つ位の児の様なすんだ声とサラッとした皮膚をもって居た。
 二人は手をひかれ合ってせまっこい一方は沼のまわりを森でかこんで居るところ、一方は丘の様になった畑の道を通って行った。二人の草履の音はこの頃の時候につり合った音を立てて居た。
 だまりあったまんまかなりの道をあるいた。
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「まだなかなか、私少しつかれた」
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 千世子がいかにもこの小っぽけなお友達をたよりにする様に云った時、その男の子はポッと赤くなりながら、
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「もうほんの一寸……」
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といい声で云ってふりかえった。
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「あんた達っちゃんて云うんでしょう? 私の名を知ってて?」
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 千世子は笑いながらそのかおをのぞき込んで云った。
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「ええ!」
「私の名も?」
「ええ」
「何ての? いってごらんなさい」
「だって……千世子ちゃんてんだって……」
「マア、ほんとうにそうなの、……可愛い名でしょう?」
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 こんな事を云って笑い合って小峯についた。青い草の中にまじって白いのや紫のはまぼしいほど咲いて居た。
 達っちゃんはすぐかがんできれいなの、きれいなのとつみ始めた。千世子はたんねんにさがして少しずつとって行って時々高い声で、
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「達っちゃんて云う方」
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とよんで見たりうたをうたったりして居た。
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「あのねエ、気をつけないと蛇の穴があるんです、落ちるとあぶないから……」
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 千世子と一寸はなれて居た達ちゃんは千世子は自分で守って居てやらなくっちゃあならないものと思って居る様な口調で云って居た。
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「そう、そんならもし落ちそうになったらあんたが援けて下さる? 蛇が出て来たら貴方に『追って下さーい』って云いますよ、そいでもにげないで来たら貴方が先にかまれなくっちゃあ、いけませんよ」
「ええ」
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 達ちゃんは真面目な決心した様な返事をして居るのが千世子はもったいない様になってしまった。
[#こ
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