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「今だからこんなにしても居るんだけれども、もう四五年も立つとまた私のきらいな声や形になって私にいやがられる様な子になっちまうんだろう」
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こんな事も思って居た。
達ちゃんは大した目的がある様に一本ずつ花を摘んで行った。両手にあまるっくらいつみためた時達ちゃんははにかみ笑いをしながら、
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「これみんなあげましょう、――随分沢山になった……」
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と云って千世子の腕の中にうす紫の雲の様な花束を抱えこませた。
千世子は手がつかれた様に感じるほどの花をかかえて達ちゃんと並んで先に来た道から又もどった。
丘の所にせまくつくられた豌豆の畑の、白い蝶の様な赤いリボンを結んだ様な花のどっさりついた一つるを根からとって千世子のも一つ別な方のうでにかけてやった。達ちゃんがいろいろと千世子に親切にしてやりながらも、
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「この人は私はどんな人だと思って居るんだろう、いつまでも覚えて居て可愛がって呉れる人かしら、私をあんまり子供あつかいにして居すぎる」
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とこんな事を思ってまるで若い女の様に何事か思い出してポーッと顔を赤くした。
どことなく神経質らしく見えるこの子の、時々赤くなったりうす笑いもしたりするのが、千世子には無暗に可愛らしく思われた。
そのしまった白い額を見ながら、もうじきにここまでも油ぎって色も黒くなるんだろうと思うとどんなに美くしくどんなに尊げに見えて居てもその後にせまって来て居る身ぶるいの出るほど千世子にいやな事を目の前にうかべて、それをなでたり又さわる事なんかは出来なかった。
花でもって飾られて千世子は家に帰った。大きいコップに入るだけの花を入れて豌豆のつるは床の間の花かけにさした。小さなコップに丸るく盛花にして千世子はしのび足をする様にして達ちゃんのマドンナの絵のはってある机に置いて、格子のかげでのぞきながら笑って居る主婦にかるく頭をさげて部屋に入ってしまった。
母親は、
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「まあこんなによく摘んだネエ、いいところだったかえ」
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とはればれしたこえできいた。
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「ええかなり、でも行く道が阿母さんなんか通れないほどせまいところがあるから二宮さんの方から参らなくっちゃあ行かれますまい、きっと。つれてってあげましょうか?」
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返事をしながら千世子はまだ美くしいこの花を入れてHのところに便りしてやろうと思って居た。
その日も又考え深くない何の思い出す事も思う事もしないで暮してしまった。
その晩は暗で星ばっかりが出て居た。
漁があったと見えて磯はかがりと人いきれとでポッポッと燃えて赤いかがやきは波にゆられて向うの陸に住んで居る人にしらせに行く様に動いて居た。ほらの貝をふく音は千世子の心をどっかにひっぱって行きそうだった。
母親と並んでその上気する様な光りを見て居た千世子は、何だか限りない悲しさを抱いて一人で都をにげてこんなところに来て居る様にそのほらの声で思わされてしまった。
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「よっぽど漁があると見えるネエ」
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と云って居る母親の横顔を珍らしいものの様に見ながらHの声の丸さが心の中に湧き上って居た。
いかにもこんなところの筆らしいガチガチになった筆の先をかんでふだんよりぎこっちない字でHのところへ手紙を書き始めた。書き出しが気に入らないとよくっても悪くってもそのかみを破らないじゃあ気のすまないくせのある千世子は幾度も幾度も紙反古を作ってはあてもない方へなげつけて居た。
そうしてようやっと書きあげてよみ返したときにはそんなに気に入った手紙じゃあなかったけれ共母親が来てこのわきに何かそえ書きをするかさもなくば千世子の名のわきに自分の名をかくまでまって居た。下で主婦とここいらの地価の話をして居た母親は笑いながら下から上って来た。
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「おや何を書いたんだえ」
「Hさんのところへ――阿母さんよんで見て何か御書きんならなくっちゃあならないんなら書いて下さいナ花のしぼまない内に出したいんだから……」
「Hさんとこへなんか手紙なんか出さずともいいじゃあないかわけもないのに――それに先達ってこっちに来るとすぐ葉書を出したのにうんともすんとも云って来やしないじゃあないか、だものそんなにしずとも……」
「何にも返事が欲しくて書くんじゃあありませんわ、書きたくなったから書いたまでの事なんですもの」
「一体男なんかに手紙をやるなんて事は不賛成なのさ」
「ちゃんと書いたものはお見せするしそうして出すんなら何にもわるい事じゃないじゃあありませんか、御まけに阿母さんの名まで自筆で書くんじゃあありませんか……」
「そりゃあそうでもネとかく……」
「何ぼなんだってあぶり出しの手紙なんか書きません」
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千世子はこんな事を云いながら何故私達はこんな一本の手紙なんかでこんなにさわいで居なくっちゃあならないんだろうと思った。
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「下らない事だ!」
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フッと頭の中をそういう閃きの通って行ったあとすぐ「阿母さんは私が出すのをいいと云おうか悪いと云おうか迷っていらっしゃるんでしょう、もしいいんならここに名をかくんなりウンと云うなりなさってちょうだい」
何でも早くくくりをつけちまう方がいいんだと云う様にまっしかくな目つきをして云った。
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「ほんとサ、そんな事は考え物だよ」
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にえきらない返事をしたっきり母親は前に長々とうねって居る手紙の字をあっちこっちひろって居た。二人はだまったまんまてんでな事を考えて波の音にまじってひびいて来る小さい子供と女中の笑声をきいて居た。
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「阿母さんこんな事しててもあんまり下らないじゃあありませんか、理性の人だって云ってらっしゃるのに迷っていらっしゃる?」
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母親はだまったまんま何となく落つきのない目をしてあっちこっちをながめて居た。
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「アア、そんならもう面倒くさいから出すのはやめましょう」
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云うとすぐ長い手紙をかきあつめて片っぱしから裂き始めた。
厚いまっしろい紙のこまっかくなって行く音はシュッシュッと云う悲しそうなものであった。
「何でもかまうもんか」と思いきった様な目つきをして居ながらうすらさむい様な気持になって居た。
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「何にも反古にして惜しいほどの文でもなければそれほどの字でも又やる人でもありゃあしない」
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わざとらしい様に千世子は低いこえでこんな事を云った。母親はだまってする事を見て居たが、
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「そうさ、そん[#「ん」に「(ママ)」の注記]がいいんだよ、そんな事ってのは誤解しやすいもんだから……」
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間に合わせの様にこんな事を云ってこまっかいかたまりになった手紙を見て居た。まるめた間から一番いいのをよった蓮花がのぞいて居るのが、千世子にはさしぐまれる様な気がした。
二人の間にわだかまった事をときたいと云う様にそれからは出来るだけ陽気に天狗俳諧をしたりしてさわいだ。千世子のそんなに深く思って居ないらしい様子を見て母親は快く他愛もない事を書きつけて笑い合って居るのが、千世子には只自分のつとめた事が成功したと云う事のほかにうれしい事はなかった。
そうしてねられなかった長い間千世子は母親と小供と小さな鼻をした女中の顔を見て涙ぐんで居た。そうして居る間パチパチと目をあいたりつぶったりしながら、妙に親しくなったHと自分の事を考えないでは居られなかった。
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「何にも私はHに恋をして居るんじゃあない、そうしてして居ないと断言する事が出来る。けれ共私はあの人に同情して居る、或る程度まであの人を信じて居る、こうやってはなれて居ても思い出す事もあるだけ彼の人は私の頭の一部分を領して居るに違いない。私達は不幸だと知りながらもはなれて居られないものになるかも知れない」
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こんなに思いつづけて居る内にあんまり先の先の事まで又そんな事のない様にと思って居る事まで思ったのを恐れる様に耳をふさいで夜着の中にもぐりこんだ。
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「何! 不安心な事があるもんか自分さえしっかりして居ればチャンチャンと事はすんで行くにきまって居る、それに又若し二人が夢中になってしまったら私の望んで居る恋のどっちかが満足する様に出来上ったらそれでいいんだ。けれ共なまはんかな様子は必[#「必」に「(ママ)」の注記]してしてはいけない、私はどんな時にもそう思って居ればいいんだ。そうすりゃあ生きて居る中に恋なんかは大抵は出来そうもないけれどそれも又いい」
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考えまいと思って居ながらそんな事を考えて居た。
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「アアア」
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うす笑をして千世子はそのまんま寝入ってしまった。Hと二人で目に見えないものに深い深い谷に落とされた夢にうなされて起きた時夜があけはなれて居た。自分の先の事、又あってはならない先の事を見せつけられた様ないやな気持がして、ゆっくりとうねって居る海面と白い帆の思いなげにふくれて居るのを見て居た。
その次の日もその次の日も千世子にはものうい心が二つに分れた様な気持になって暮した。つかれたらしい海にあきたらしいあくびをするたんびに、
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「私の顔も赤くなったしもう二十日より長くも居たんですもの帰ってもいい頃でしょう、あんまりこうやって居ると馬鹿になってしまいますもん」
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と自分と同じ様に他人ばかりの中に自分の二人の子供と又それ以外のいろいろの事を守って居なくっちゃあならない努力につかれた様な顔をして居る母親をつかまえては云って居た。
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「それもいいネエ、私ももう居るのにあきて来た、もう四五日にもなったら帰ろう」
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何にも思ってなそうな女中までそれをきいた時うれしそうに、
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「お嬢さま、私ももうほんとうに……」
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と云った位であった。
嫁いで来てから随分長い間世間を苦労して渡って来た母親も宿屋生活をしなれないんで、又気ぐらいの高い事や高くとまった心をもって居る事やで人に知れない苦しみがこの旅行にともなって居た。
自分の若い娘をなるたけよく、きれいにととのったものに見せたいと思いながら又男達にふり向かれたり、何か云われたりするといかにも不安心な抱えて置きたいとまで思われるのであった。
小さい子供は海には入りはすまいか、ころんで額にきずを作りはしまいかと云うとりこし苦労までたった一人で、御まけに少しは神経衰弱になって居る頭であれこれと気をくばる事はつらい又努めなければならない事であった。
ほんとうを云えば千世子より前に母親は海にあきて居たけれ共本人が、つれて来た本人がいやだとも云わないのに又それほどよくも見えないのに帰ろうと云う事はあんまり不真面目な様に思って居た。
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「もうかえりましょう」
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と云うのを心まちにまって居た。
東京に電話をかけすぐ一日置いた日に立つ事にきめてしまった。
千世子はこっちに来る時よりよけいにうれしそうにして居た。目をまっくろに光らせて健康らしい気まぐれな顔色をして母の女中相手のはかどらない荷造りまで手伝った。その前の晩は目があいたまんまで一晩中すごしたほどはずんだ心で居た。
丁寧な主人夫婦の礼言葉や子供達の御名残の言葉なんかは夢中にきいて電車に国府津までそれから汽車にのってしまった。
ゆられながら
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