千世子はあんまりあわただしい立ち様をふり返っていろいろと思い出した。あの日に宿の女中が私の髪を結うのを見て居て手のものをおっことした事もあったっけ、あの時には――この日には――もうとっくに過ぎ去った事の様に千世子はくり返して、一番おしまいに小峯に行った事、手紙の事、それからさっき達っちゃんが、
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「さようなら、又ね」
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と云った言葉が思い出された。
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「せかせかして居た自分は一寸かるく達っちゃんの頭を抱えたっきりだったけれ共――」
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 千世子はまだたりない忘れて居るもののある様な気がして居た。
 気軽に小供や母親に言葉をかけながら段々に都めいて来る町の様子を千世子は晴ればれした輝く顔をして見て居た。
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「阿母さんうれしい事ネエ、私も丈夫になったし東京にも帰れる――」
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 時々こんな事を云っては肩をゆすったり眉をあげたりして居た。
 同じ室のすみに座って居たまだそんなに年をとらないイギリス婦人が千世子の方を時々見ては何か云いたそうに笑ったり手を動かしたりするのを、目の合うたんびに笑いかえして居るのもうれしい心がさせる事だと千世子は思って居た。
 新橋についてドアに手をかけた時、迎えに出た人の中にHさんと源さんの首から上を一番先に見つけそのわきに父親の立って居るの車夫が二人のび上って居るのも見つけた。
 手をのばして高いところで二三度ふるとその人達は皆見つけて千世子の居る車の前に立った。
 母親は父親に小供は車夫に千世子は源さんとHにたすけられて降りた時胸いっぱいにうたをうたいたいほど嬉しさがこみ上げて居た。
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「マアほんとうに私はかえってきたんですワネエ、ほんとうに――」
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 一人一人の顔を笑って見ながら溜息をつく様にひびく声で云った。
 母と小供は車にのって帰るから千世子にも車で行けと云われた時、
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「ざっと一月ですもの電車にのって見とうござんすワ」
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とあまったれて父親をひっぱったのも千世子には珍らしい様子であった。
 こんだ電車の中につめこまれてゆれるたんびにHと体のぶつかるのや、父親のところによろけるのや、夕刊うりのこえや、そんなものは皆千世子にはうれしく思われたり見えたりする事柄だった。
 電車からの十五六丁の道も歩いて初めて自分の生れた家の柱を見た時とびついて頬ずりしたいほどなつかしい光をもって居た。
 さぞ汚れて居るだろうと思ってあけた自分の部屋には額がかけかえてあって机の上には新らしい雑誌が二冊ちゃんとならんで、赤茶色の素焼の鉢にはうす赤のふるえる様な花が千世子の方にその面をむけて笑いながら首をかたむけて居た。
 ピアノのキイを小指でつっついて見たり、本をパラパラとくって見たり皆とじょうだん口をきいたり、外のすっかりくらくなってしまうまで千世子はジッと座って居る事さえ出来ないほどだった。
 留守をして居た弟達はうれしがって居る自分達の姉の体を胴上げにしないばっかりにその小さい子供と一緒にかこんで鬨をあげる様に笑いながら一っかたまりになって家の中をめぐって歩いた。
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「ほんとうにいい時御かえりでしたネエ、あしたは日曜で今夜は更かすことも出来るし……」
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 一緒に来たHさんと源さんは皆の愉快らしいかおを見てほほ笑みながらこんな事を云った。
 御飯がすんでから皆丸く座った時千世子は立ち上って一人一人に、
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「貴方は色がくろくなった」
「貴方は手が大きくなった様だ」
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なんかと云いながらその顔や体をつくづくとながめてまわった。
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「アア、お父様御はげがちょんびり育った」
「オヤ、正ちゃん貴方は――」

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 云われる人もうれしそうにして居た。Hさんの前に来た時、
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「先の中と一寸も御変りにならないんでしょう」と云ったきりとなりの源さんの前では、
「勉強がすぎて私の二代目になりかかってらっしゃる様だ!」
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なんかと云って自分の事等はすっかり忘れてしまった様な気持で居た。
 父親は風呂に母親は小供の世話に三人きりになった千世子は小さなふくみ声でこんな事を云った。
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「この頃の海辺って神経質な人が長く居たら気違いになってしまいそうにまでしずかで、こい光った色と香いをもっているもんです事ねえ」
「マアほんとうにかえりたくなった事が有ります、心が二つに分れた様になってネエ」
「今になると家の中にジッとして居た方がよかった様にも思われます。同じ宿にとまって居る人達を観察するでもなし、割合に無駄な時間を多く費したんですものネエ」
「それがいいんですよ。だからごらんなさい、顔だって赤くなって居るし目だって丈夫そうになって居ますよ」
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 Hさんは熱心に千世子の顔を見つめながら云った。千世子はHさんと源さんの手を自分の両手にもって肩位までの高さにあげたり下げたりして居た。意味もなくこんな事をしてはしゃぐほど千世子はゆとりのある心になって居た。
 その翌々日から千世子は学校に行った。どの教師も又どの友達も、
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「マア、貴方いらしったの」
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とか、
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「マア久しぶりですネエよく来ました」
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とか云われた。
 そうしてその日っから毎日毎日元気らしく、時には寝不足な青い顔もしながら学校に通って居た。
 Hは一日おき位にはキッと来た。六時すぎ頃から来て更けるまで話すと云う事はここの家の習慣の様になってしまった。
 Hの来た時はいつも十一時半にかえって行くのがきまりだった、その十一時半を家の人達は定刻と云って居た。千世子が小田原から帰ってから五ヵ月の時はかなり早く大した変った事も生まないで立って行った。
 その間にHと千世子の一家は一緒に江の島に遊びに行ったり、たまには芝居を見に行ったり音楽をききに行ったりした。そのたんびにHと千世子と又その囲りの人達はうちとけて行った。いろいろなこみ入った経済の事までHは母親に相談するほどになった。
 Hがたびたび来る毎に二人っきりで居る事も多くなった。けれ共千世子はそんな事を別によろこびもしなければ又いやにも思わなかった。ただあたり前の事と思って居た。
 菊の花が盛りになったホカホカな日に母親は千世子にそれとなしこんな事を云った。
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「女って云うものはネエ、ほんとうに下らない事にまで気をつかわなくっちゃあならないんだから……、それに又御前位の年頃の人は余計にいろいろ人から云われなくっちゃあならないんだからほんとうに何から何までつつしまなくっちゃあいけないよ、口さがない女中や何かからあれこれと云われたりなんか必[#「必」に「(ママ)」の注記]してしない様にネエ。
 だからHさんが来た時でも何でもあんまりしゃべったりふざけたりなんかしない様にするんだよ、あんなものは下らない廻気なんかして云いふらすもんだからネ」
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 千世子はだまってきいて居たけれどもその云うわけもこんな事を云い出す動機も知って居た。こんな事を云われてから千世子が自分とHとをどれだけ母親が案じて居るか、又どの位の事まで想像して居るかって云う事を知った。
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「阿母さんは私とHさんがどうにかなってるんだと思ってるのかも知れない、若しそう思ってたって何も私がつとめて証明してそうでないと思わせなくっちゃあならない事でもなし又自然に分ってしまう事なんだから……」
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 こんな事を思ったっきりであった。そうしてその頃から書きかけて居た事をまとまらないながらも書いて居た。
 千世子の仲良くして居るK子が、千世子が海辺に行って居た内一度も便りをよこさなかったと怒ったのももっともなほど段々よそよそしくそうして又段々、千世子には関係のうすいものになりかかって来て居た。
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「ネエ、K子さん、あんたこの頃段々変って来る様じゃあありませんか、そいで又……」
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 前髪を高々と出したK子の小さい額を見てそう云う事も一度や二度ではなかった。そうした事のつづく毎に二人の心は段々と遠い所に向って進んで行った。
 K子は御嫁の仕度に今までそんなに身を入れて居なかった家庭向の事に懸命になって今まで加なりに知って居た事考えて居た事はすっかり忘れた様になって、知って居る事と云えば先に覚えて来た事をそのままに守って文学と云うものにはうとくなって来るばっかりでそれに対する慾も一頃よりはよっぽど下火なあるかないか位にほか過ぎなかった。
 千世子はその人達を悲しい目で見ながら自分の進むべき事を張のある心で進めて行った。
「女の友達なんて――まして私達の年頃の友達なんて下らないもんですネエ、仲がよくなるとなるとすぐなるしはなれるとなるとすぐはなれて一寸だって未練なんてものはもたないんですものネエ。そして御嫁に行く事ばっかり考えて馬鹿になるのを知らないで居るんですもの。
 もう一二年したら私は一人ぼっちになって仕舞うかもしれない」
 こんな事を小学校時代からの自分の親友の話をして自分の事の様に嬉しがって居るHにする事もあった。物にはまってみやすい千世子はこの頃のK子の様子が気になって絶えず頭の中を行往[#「行往」に「(ママ)」の注記]して居た。一方には又真面目に自分を思ってて呉れるM子の事なんかもしきりと考えられて居た。
 黄な日差しのむずかゆい様な日に午後から来たHは、両親とも留守だったんで千世子と二人で洋館に居た。他愛もない事に笑ったり考えた目つきをして御互の顔を見合ったまんまだまって居たり、ピアノを弾いたり歌をうたったりして居た。
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「子供達もしずかだしいい日ですネエ、落ついて……」
「おだやかですワ、ほんとうにネエ」
「千世子さんあんたにいい事きかせてあげ様……」
「どうぞ」
「こないだの夜貴方が外へ出て居なかった事があったでしょう? ほら、中西屋に行った時ネ、阿母さんが云って御いででしたよ。
『何か貴方御心あたりがありませんか、千世子のなんに――もうこないだも主《アルジ》に云って居たんですがもう約束位して置いたっていいってネエ、忠太さんに会った時もそ云ったんですけど……なるたけ工科の人で少しは文学嗜味のある人ですけどどうでしょう』って。
 私まだそんな事しないだっていいでしょうって云ったら『そうじゃあありませんよっ』てネエ、千世子さん……」
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 千世子は顔を赤くもしず身うごきもしないであけっぱなしの様に笑いながらきいて居た。Hは話しながら時々声をほそめたり顔を赤くしたりして居るのが千世子には可愛そうな様に思えた。
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「マア、そんな事を云ったんですか、早手廻しな事だ」
「そんな事云ったって一生ミスでも居られますまい」
「サア、居るとも居ないとも云えませんワ、死ぬほど行きたい人があったら行きましょうし……」
「そう? キット?」
「エエきっとそう」
「そいじゃあもし死ぬほどもらいたいと云う人があったら?」
「おやめなさいよ、そんな、昔から幾人の人がつかった言葉だかわかりゃあしないし、又そんな事を云ってると田舎者の厚化粧みたいだから……」
「オヤ貴方そう思ってる?」
「エエ、私そう思ってますわ。
 この頃の人間は自分の恋してる女が、
『命にかけて……』
と云った時に、
『お前は幾度そんな事を云った?』
とつきはなす様になりましたもの……」
「…………」
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 Hはだまって大きなマドンナの額を見て居た。千世子も知らばっくれた様に
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