そっぽを見て足拍子をとってわけもない短い歌をくり返して居た。
二人の間に短い時が長く沈黙の間に立って行った。
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「貴方怒った?」
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Hはふり向いて唇のあたりにうす笑をたたえて調子をとって居る千世子を見た。
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「いいえなんいも――」
「そんならもっとこっちにいらっしゃいな、そうして何か話して下さいナ」
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Hの声はまるですがりつく様に千世子の耳の中を伝わって行った。
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「何話しましょうネエ」
「何でも貴方の話したい事」
「一寸わかりませんワ私の今さしあたって話したい事なんて――」
「そいじゃあ私に云わして下さいネいいでしょう」
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Hは身体をゆすって深い息をついてそうして話し出した。
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「私はネエ千世子さん、こないだ沼津に行った時にもかえってからもそこいら中から嫁を世話して呉れる人があります、でも私は一つ一つ思いきりよくことわって一度でも残念だったとか情ないとか思った事がないんです。それは、――エエ私は天の神様が特別に私の愛して好い人として作って下さった女が私の前に現われるまで私はまって居るんです。私はその人の現われるって云うのを信じて居ますもの、そうしてその人が出来るだけ早く私の目の前に立って呉れる様に願って居るんです……」
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前よりも一層い[#「層い」に「(ママ)」の注記]そうして真面目な溜息をついた。
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「そう貴方はまっていらっしゃる?
エエほんとうにそうですワ、神様はキットそう云う人を作って下さるでしょう。
でもそう云う尊いものは中々、ぞうさもなく現われる筈はありませんでしょう?
でももし現われた時には嬉しいでしょうネエ、この頃の世の中はその換りにサタンが特別に男のために作った様な女やそれと同じ男も居ますもんネエ」
「そうですか……」
「ネエ、Hさん、そう御思いにならない? 私が貴方に始めて御目にかかった時から今までもう一年ですワ、そいでその間に随分変った事もありましたワネエ。私の身丈の育った事、一寸ちょんびり利口になった事、いろんなものを書いたり読んだりした事なんか、私の頭だけ年に二つ位ずつ年をとって行ってしまいます、じょうだんじゃあなく」
「ほんとうにネエ、もう一年ですネ、今年の一年は今までの一年と随分内容が違ってます私にとっては。
第一、ここの御家にこんなに段々親しくしていただく事、阿母さんと貴方とが私の相談相手にもなぐさめて下さる人にもなっていただける、ほんとうにどんなに何だか斯う嬉しいかわかりませんよ。私みたいに独りぼっちで苦労して居なくっちゃあならないものには斯うした御家のあるのがこの上もない事なんですもの……」
「親しくして呉れる人のふえるのってのは誰だってよろこぶもんですワ」
「でも貴方みたいに皆から可愛がられて居る人はそうひどくは感じないでしょう?」
「どっちかと云えばねえ――親しくして呉れる人の三人ふえた時のうれしさより中位にして居た人でもはなれる事はつらさがひどうござんすものねえ。だれでも私のそばに居た人がはなれて行くと云うのは大きらいですワ、ほんとうに……」
「でも貴方はほんとうに幸福な方だ!」
「一寸Hさん、あんた私をもう一年も前っから知ってらっしゃるくせに千世子さんなんて御呼びんなるんですねえ、なぜ?」
「なぜって――貴方私が千世ちゃんなんて呼んだら御怒りになるでしょうキット……」
「始めて会った人なら無論怒るどころかそっちを見てもやりませんワ、でももうようござんすワ、ねえ、千世ちゃんて呼んで御覧なさい、もし変だったら前通り、そいでよかったらそのまんま」
「千世ちゃん――」
「変じゃあありませんわ、却ってその方がようござんすワこれからそうよんで下さる? ねえ」
「エエ千世ちゃん――」
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Hは千世子の名をよんではジーッと耳をかたむけて居た、千世子も他人の名の様にききすまして居た。
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「ねえ、私達は割合に仲よくなりましたねえ」
「そうですか、私はそんなに貴方打ちとけて下さらないと思ってます」
「私はそう云う人なんですよ、大変すきな人でありながら大変きらいな人だったりするんですもの、打ちとけてたって貴方にわからない事だってあるかも知れませんワ」
「私達はこれよりもっと仲よしになれましょうか? 私はたしかになれます」
「私はわかりません、若し私があしたかあさってかに死んでしまったらどうなさる? 仲良しになるもならないもありゃしませんワ。でもじいさんばあさんでさっぱりした御茶のみ友達で居るのも悪かありませんワネエ」
「仲の悪くなる事はありますまいネエ」
「それもわかりませんワ、大抵はありますまい、そんな事はあんまり約束しちゃわない方がいいんですワ」
「私はそいじゃあ一人で約束しましょう、きっと貴方と仲が悪くなりませんどんな事があっても……」
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Hは斯う云って小さな十字を額のところに切った。
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「私貴方がすきですワ、だから若し貴方が健《すこやか》でいらっしゃる時に私が死ぬ様だったら呼んであげましょう、貴方の死ぬ時も行ってあげましょう。でもいざとなった時貴方は御ふるえになるでしょうネエ、キット」
「エエ、私は死ぬ事を恐れてるんです、神様から下さる人が目の前に現れるまでは……」
「現れると一緒に頓死して御しまいなさる?」
「そんなに茶化すもんじゃあありませんよ、私の真面目で云って居る事はネエ」
「じゃあ私は貴方の、貴方は私の運命をお互に見合ってるんですの? いやな事ってすねエ」
「…………」
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千世子はHの考えて居る事がよくわかって居るのに知らないふりをして居るのや、いやに高くとまった自分の心を心の十分の一にもならない言葉で云うって云う事がいやになって来た。頭がごっじゃごじゃになってしまって椅子のせなかによっかかった。頭がぽっぽっとして来て体が宙にういて行く様になった。
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「今日は悪い時候なんでしょうか、私頭の工合が大変妙になって来ました」
「私のした話の皮肉を云っていらっしゃるんでしょう」
「そんな気じゃあないんです。頭を押えて御らんなさい、熱くなってましょう、ほんとうの事なんですもの」
「そうですか、どうしたんでしょう」
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Hはしずかに部屋の中を歩き廻った。
時にかるい小さなせきばらいをしたり、とまって見ては千世子のなやましそうに又我ままそうな様子をして居るのを見た。
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「貴方って方は何でもあけっぱなしに云わない方ですネエ、娘の様に――」
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千世子は胸のところにこみあげて来るかたまりをおし下しおし下しして云った。
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「エエそう云う風にしなくっちゃあならないから……」
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千世子の前に立ったHは千世子が涙をこぼして居るのを見た、Hの自分の目からもわけもなく涙がこぼれそうになった。
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「大変ヒステリックになっていらっしゃる――」
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こう云っただけであった。そうして千世子の前の椅子に腰を下して千世子の赤い輝いた瞳を見つめた。
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「私今ネ、フッとやたらに貴方が可哀そうになったんですの、そしたらすぐ涙が出ちゃったんですの、ただそれだけ……」
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千世子は三つ子の様に声に出して泣きたいほどやたらむしょうにHが可哀そうになって来た。
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「ほんとうに貴方って方は可哀そうな方だ、だけど今にいい事のある時が来るでしょうネエ」
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まるで年をとったクリスチャンの様な声で千世子は云った。
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「可哀そうに思って下さる? ほんとうに……そんならもうあけっぱなしに私にして下さいナ」
「いいえ私達はネエ、この位の仲のよさで居るのが一番いいんだと私は思ってるんですもの。私達が仲がわるくなっても悲しゅうござんすし、あんまり仲がよくなりすぎてもそのおしまいに悪い事がありそうですもの……悲しい事があった時はお互になぐさめ合って年取るまで御友達で居る方がいいんです。あんまり仲がよくなるときっと二人ともいやいやながらしなくっちゃあならない事や、しなくっちゃあならない気持をもたなくっちゃあなりませんもん……」
「貴方、思ってる事と云ってる事が矛盾して居るじゃあありませんか、貴方はきっと私と同じ様に出来るだけ仲よしになっちまおうと思って居ながら――」
「そりゃあそう思ってるかも知れませんワ、でも私は自分のすきな人自分の仲よしを自分のために悲しい思いやつらい思いをさせるのはいやなんです」
「きっと悪い事が起るときまってますまい」
「大抵はきまってます、私はジーッとして居る事の出来ない我ままなその時々の気持を可愛がる女ですもん、一緒にならなくっちゃあならないために自分の感情を押えつけたりつくろったりする事は出来ない人なんですもん……」
「貴方死ぬまで一人で居ますか?」
「今だって私一人じゃあありませんワ、私の家の囲り体の囲りにはいっぱい目に見えない。そいで力強いものが集って居ますもの、私はそれを信じてそれと話し合いながら六十年なり五十年なりの一生を終る事が出来ます、そいでそれが一番私の幸福な事ですもの。
それで私は満足して居ますワ」
「ネエ、千世ちゃん私はもうさらけ出して云います、どうぞねえ怒らずにきいて下さい。私はねえ貴方が大変すきなんです、そいで又私のすきがる事を皆貴方はもってらっしゃる、そう思ってるんですよ、私は一生はなれないで居られる様になりたいと……
それを御願いしようたって貴方はいやがっていらっしゃる」
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Hは赤い顔になって云った。
だまってきいて居た千世子は又新しい涙が湧いて来る様になった。
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「何故貴方そう思っていらっしゃる、私をまだすっかり知らないからそう思えていらっしゃるんでしょう、貴方もっと私の悪いところも知らなくっちゃあいけませんワ。
私はきっと御断りするにきまってます、でも私は貴方がすきですワ、私は貴方がすきだからそう云うんです」
「じゃあ私達はどうしても死ぬまで御友達で居なくっちゃあならないんですか、私は……」
「私は貴方の御友達としてならいい女かも知れないけれ共それ以上のものになる様には生れついて居ませんもの――その方が幸福です――」
「でも私達ははなれちゃう事は出来ませんねえ」
「ええそれはきっと出来ません、そうしたら私は悲しがるでしょう……」
「そんなら私は今のまんまに満足して居なくっちゃあいけないんですか」
「お互にその方がようござんすワ」
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そう云った時Hも千世子も涙ぐんで居た。
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「どうしてこの人は私をこんなによくばかり見て居るんだろう。
私とあんまり仲よしになれば自分が不幸になるって云う事も忘れて居るんだもの――信夫も源さんも――ああ、ああ、私はもういやになってしまう」
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千世子はそう思って居る。
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「この千世ちゃんて人はどうしてこんななんだろう、若い女の様じゃあなく何か考えて居る様に――感情的な女でありながら――私はだまってこの人のもしかひょっとして心のかわって呉れるのを待って居るほかない」
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Hは落ちそうになって来る涙をのみこんで考え沈んだ様な又ジーッと自分の心を押えつける様にして居る千世子の上目をして居る顔を見た。Hは頭がクラクラして来た。
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「千世子さん、あんたは――」
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Hは机の上につっぷしてしまった。千世子は上を見て居た瞳を下
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