してHを見た。白い指は顔を被ってまっくろいしなやかな髪はやさしくふるえて居た。
Hの髪のふるえと同じ様に千世子の心もふるえて居た。
[#ここから1字下げ]
「Hさん、そんなになさらないでネ、男の人がそんなにまでする事じゃあないでしょう、ネ私は変な気持になってしまいますワ……」
[#ここで字下げ終わり]
千世子はそうっとHの頭をかかえて居た。ジッとして居る千世子の頭の中には源さんの様子、信夫の手紙、そうしたものが並んで横ぎって行った。
[#ここから1字下げ]
「アアいやだいやだ、私はそんな事に一々顔を赤めたり、涙ぐんだりするほど初心な気持はもってもしないのに――どっかへ行っちまえば一番いいんだ、私の知らない人の居るところに行けば、行ったところで世の中のうちならやっぱり同じ浮世なりけりなんだ――アアア私はほんとうに――」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は皆をつきとばしてどっかへ行ってしまいたくなった。
声をあげて泣きたいほど、千世子は何とも云われない気持になって居た。
[#ここから1字下げ]
「何故Hさんはこのまんま動きもしない食べもねもしない美術品になって居なかったんだろう。
若しそうなって居て呉れたら私は夢中になって恋をする事が出来たかもしれないのに、――」
[#ここで字下げ終わり]
フッと千世子はそんな事さえ思った。
夜の十時すぎまで居て、
[#ここから1字下げ]
「左様なら――いい夢を御らんなさい」
[#ここで字下げ終わり]
と云ってかえって行ったHはいかにも悲しい事のある様にうつむいて暗い道をたどって行くのが千世子をにわかに弱い気持にさせてしまった。
[#ここから1字下げ]
「私達はどうしていいんだかわからなくなって来る」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は小さくつぶやいてその晩はろくにねないでしまった。
それからあとも、Hと二人きりで居る時母親がガラス戸に耳をつけて話をきいて居る事の度々あるのを千世子は知って居た。Hも知って居た。そうした時に二人はかるく淋しい様な口元をして笑い合った。
[#ここから1字下げ]
「取りこし苦労をしていらっしゃるんだ!」
[#ここで字下げ終わり]
こんな事を話の間にはさんだ事もあった。
千世子は何にもする事のない時ジッと考えに沈んだ時なんかに、
[#ここから1字下げ]
「私をとりまいて居る三人の人の中で私は、一番Hをすきがって居るそいで一番私のすきな事を沢山具えて居る人だ!」
「Hさんはああやって毎日毎日悲しそうな目つきをしてこれからあともひとりぼっちで暮すんかしら……」
[#ここで字下げ終わり]
こんな事をフイと思ったりした。
[#ここから1字下げ]
「私はHを恋してるんだろうか、若しそうだったら?」
[#ここで字下げ終わり]
こうも思った。
そうして千世子はHの来るたんびに千世子自身の心をうたがい始めた。
[#ここから1字下げ]
「ネエ、母さん、母さんはHさんをどう思ってらっしゃる?」
[#ここで字下げ終わり]
母親の沢山人を見た眼にうつるHはどうかと千世子はきいても、
[#ここから1字下げ]
「酒も煙草ものまず気のねれた人だし苦労もしたし少しとりすました人だけれども人としてはいい人だねえ」
[#ここで字下げ終わり]
と云った。
[#ここから1字下げ]
「体が弱いのが可哀そうだねえ、どうしてあんなだろう、苦労ばっかりしたり、悲しい思いばっかりして居るうちに死んででもしまいそうな人だよほんとうに――」
[#ここで字下げ終わり]
こんな事ばかり云うので千世子の疑いはますます深くなり、Hを可愛そうだと思う心も育って行った。
[#ここから1字下げ]
「私は不幸な事が起ると知って居ながらやっぱりその方に向いて居るのかしらん、私は運命の神のおもちゃにならなくっちゃあならないのかしらん。
でもかまわない出来るだけ戦ってまけたらその時の事だ。
何! 私なんかHを恋して居るもんか。
それが一番いいんだ!」
[#ここで字下げ終わり]
口惜しそうな顔をしてこんな事も思った。千世子はHのあらを出来るだけすくいあげて考えた。
[#ここから1字下げ]
「彼の人はあんな癖をもって居る。
心に余裕のない人だ。
文学とか美術とか云う事に私ほどの興味をもって居ない人だ」
[#ここで字下げ終わり]
と思うすぐそのあとから、
[#ここから1字下げ]
「それと云うのも若い内の悲しかった事、辛かった事がそう云う人にしてしまったんだ」
[#ここで字下げ終わり]
そう思った時にはもう同情に変って居た。
[#ここから1字下げ]
「ねえ、私達は仲のいい御友達で居るのが一番いいんですワネエ」
[#ここで字下げ終わり]
Hに会った時にそう云った事もあった。
[#ここから1字下げ]
「母さん、Hさんに良い女《ヒト》を世話して御あげなさいよ、そいでなくっちゃあ」
「そう思ってこないだも云って見たんだけれ共いやだと云ってききゃあしないんだもの、思ってる人でもあるんだよきっと……」
[#ここで字下げ終わり]
千世子はそれをきいてしかめっつらをして首をふった。
[#ここから1字下げ]
「ねえ、御前信夫さんねえ、あの人のところから又先みたいな手紙をよこしたんだよ。どうしたんだろうねえ、あんまりあとさきを考えない仕様だねえ……」
「そんな手紙を書く時にあとさきを考えるんなら始めっからそんな事も思わないんだろうけれ共――ほんとうに私はいやになっちゃう、尼寺へでも行っちまいましょうか」
「そうするといいよほんとうに……」
[#ここで字下げ終わり]
母親は笑ってとり合わなかった。
[#ここから1字下げ]
「信夫さんなんかってあんな世間知らずなくせに――あんな手紙書く事ばかり知ってる――」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は自分が行くたんびにふるえる様な目つきをしてつっかかった様に、
[#ここから1字下げ]
「千世ちゃん」
[#ここで字下げ終わり]
と呼んで見たり赤くなったりするのが思い出されて胸の悪いほどに思われた。
[#ここから1字下げ]
「貴方が恋をするなんて生意気すぎますよ」
[#ここで字下げ終わり]
と今度あったら云ってやろうかと思って人の悪い馬鹿にしきった笑い方をする事もあった。
[#ここから1字下げ]
「思い切って散切りになって男のなりをしてしまおうかしら」
「アアアア早く年取っちまえばいいとも思うけれ共――」
「若い人でなければうけられない特別な恩沢をうけすぎて私はもうあきあきしてしまった、しずかなところに独りで考えたい事を考えて居たい」
[#ここで字下げ終わり]
千世子の頭の中には時々どっか山の中に逃げて行ってしまいたいほどに思われる事があった。そうして山の中のほったて小屋にしずかに本を読んだり書いたり、木の間を歩いたりする時のうれしさを想う事もあった。
Hは時の来るのを待つ様に必[#「必」に「(ママ)」の注記]して千世子に先に一度云った様な事は云わないのが千世子には却って考えさせられる様に感じて居た。
[#ここから1字下げ]
「Hさん、私達は段々はなれられない御友達になって行きますわねえ。
でも御友達には違いない。
私達はお互に不幸にならない様にしなくっちゃあいけませんワねえ、そうでしょう」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は考える事のやたらに沢山な生活をして居た、そうして考えあまった様にこんな事も云った。
[#ここから1字下げ]
「私は夢中な恋が出来ないから必[#「必」に「(ママ)」の注記]して恋はしない、私の進んで行く道は一つで沢山だ」
「Hさんが一人で居様と二人で居ようと私に関係はないんだ。
私は私をやたらに思って男の人達の心を犠牲にしてもっと尊いもっと光のあるものを作って行かなくっちゃあならない様に神様が作って御置きなったんだ!」
「Hさんをむごくしずともいいんだ、あの人が私をそんなに思ってて呉れるって事は真面目に感謝しなくっちゃあならない事に違いない。私はHさんがすきだ、だから私達は恋をするなんて事よりもっとお互に救け合って尊い物を作っていった方がいい」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は広い大きな男の様な額でそんな事を考えた。そうして毎日毎日書けるだけ書きよめるだけ読んだ。
寒い晩であった、Hが来た時千世子はいかにも愉快そうな顔をしてHに云った。
[#ここから1字下げ]
「Hさん、私はもうこの頃すっかり迷う様な事もいやな思いをしなくっちゃあならない事もなくなっちまったんです……」
「どうして? 貴方に迷う様な事があったんですか?」
「ええ、あったんです、私が斯う云えば貴方には御わかりんなるんですワ。
ネ、私はこの頃そう思ってるんです。
私はあたり前の女の様に――又、娘の様に夢中で恋なんかする事は出来ないんです。
けーども人間同志の恋よりももっと高いところにもっと輝いて私の来るのを手をひろげてまってるものがあるのを見つけたんですワ、私は、――
その方がもっと生甲斐のある私につり合った生涯を送る事が出来ると云いはる事も出来れば、もっと私の心を満ち満ちた輝きのあるものにして呉れると云えます――恋をする事はどんな女でもしますワ、けれどもどの女でもが高いところにその人の来るのを待って居るものはもってませんワネ、私はそれを信じて又自分を信じて居ます」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は少し下を見ながら手を組んで神を見る事の出来たクリスチャンの様なしずかなおだやかな目つきをして云った。
[#ここから1字下げ]
「――そいで私はどうしたんでしょう、――私は何を見つけたんでしょう――」
「近いうちにきっと御目つけになれましょう、そうに違いありませんワ、自分のすべき事を真面目にして行く時に一人手に自分を待って居るものが見つかりますもの。
これから私達は救け合ってお互に幸福にだれにも似せる事の出来ない生活をして行かなくっちゃあねえ」
[#ここで字下げ終わり]
千世子はいつもとは人の変った様な調子でこんな事を云った。自分の頭の上が光って居る様に感じながら千世子はジーッとHのかおを見た。
[#ここから1字下げ]
「アア――神様……」
[#ここで字下げ終わり]
Hは目をつぶってうつむいていつまでも頭をあげなかった。
[#ここから1字下げ]
「貴方が私を忘れさえしないで下さればほんとうにその方が幸福かも知れません、私達は仲よくそうして考え深く――」
[#ここで字下げ終わり]
しばらく立って顔をあげたHはその白い千世子のすきな額と濃い髪を尊い様に見せながら口の辺に笑いをうかべながら云った。
二人は新らしい生命をうけた様にその日っきり今までお互に迷って居た事は忘れる事にした。
千世子はしんから迷わなくなった。
あけてもくれても真面目に輝いた目をしながら書いたりよんだりして居た。
Hには、忘られる様で忘られない千世子の顔を見ると、先に云った事をくり返したい様な気持になった。
女のとりすました、考えてばかり居る様な顔や目を見ては、
[#ここから1字下げ]
「もう忘れましょう」
[#ここで字下げ終わり]
と云った言葉に対しても又女の様子に対してもそれを再び云い出す事は出来なかった。
[#ここから1字下げ]
「時が来たら……」
[#ここで字下げ終わり]
Hはそればっかりをたのみにする様に思いながら前よりも繁く千世子の家へ出入りした。来るたんびに悲しい気持になりながら、
[#ここから1字下げ]
「でもまだ私をすきがっては居る、顔が青いとか頭が痛そうな目つきだと云って居た。
今はそれで満足して居なくっちゃあならない。時が来たら――」
[#ここで字下げ終わり]
とくり返して居た。
[#ここから1字下げ]
「時が来たら――」
[#ここで字下げ終わり]
心にくり返しながら、Hは源さんと云う人が居る――と思った事もあった。
[#ここから1字下げ]
「横どりされたんじゃああるまいか……」
[#ここで字下げ終わり]
源さんと一緒になれる様にねがいながら度々千世子の
前へ
次へ
全20ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング