わり]
つきとばした様に叫んだ千世子は男の様な味もそっけもない口元をしてHを見た。Hは苦笑をして源さんと話して居た。
家を出る時っから源さんは、重い進まない気持になって今日こんなところに来ると云い出さなけりゃあよかったとさえ思って居た。
電車の中でも自分の隣りには座らないでHのわきに座った。話をするにもHとする、笑うのにもHの方を見る、いかにもおさなげな事ではありながらたまらないねたましさが湧いて居た。
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「彼《ア》れは己れよりもHを愛して居るんだキット」
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こんな事もフイと思って、
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「デモHより己の方が若い!」
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力ない笑いを瞳の中にうかべた。おっぱらい様のないねたましさに、
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「何だ! 馬鹿らしい、どうだっていいじゃないか……」
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と思いながら千世子の目の動き方から、体の動かし方、手の有り場所まで無しょう[#「無しょう」に波線]に過敏な神経を眼の底にあつめて見守った。
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「ほんとうに己はなぜこんなところに行こうと云い出したんだろう自分で自分の気がしれやしない、千世子はたしかにHを思ってるんだ、そいで己はだしにつかわれてるんだ!」
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観念した様に目をつぶった。いつもとやたらに違ったかおつきや様子に、二人はそんな事とは知らないながらも何となくおだやかでないぞと思った。
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「源さんどうしたの? 気分が悪い?」
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あやす様な口つきで千世子はHの肩ごしに下を見つめて居る源さんに声をかけた。
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「ウウン、なんともないけど、あんまり好い気分じゃない」
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源さんは千世子にいままで用ったことのないほどとげとげした言葉つきだった。
千世子はHとかおを見合せてたまらない様な不愉快なかおっつきをした。
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「何かかんたぐってるんだ、かえったら説明してやれ、馬鹿馬鹿しい、男らしくない感情をもってるんだ!」
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斯う思うとすぐ、今日一日は源さんを思いっきりいじめてやれとむごい心持になった。
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「何が可哀そうなもんか、私を一寸の間でも不愉快にさせたんじゃないか!」
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目黒につくと千世子は一番先に降りたHに外国の貴女《レディー》の様にたすけられて気取った様子をして下りてHをまんなかにして歩き出した。三人はだれでもが行く不動さんの方に向いて居た。少しの間歩くと源さんは一寸後をすりぬけて千世子の傍にぴったりとついて歩いた。青っぱなをたらした子供やひねっこびれた小守達は千世子が油気のない髪を耳の両わきでとめてダアリアの様にリボンを結んで居るのや、うす色の絹糸をあんだ長いショールを長くひざの下まで合わせもしないで流した様子や男達と足をそろえて大股にシュッシュッと歩くのを妙な目をして見送って行きすぎると低い声でねたみ半分の悪口を云った。
三人は話をしないで歩いた。けれ共千世子の目の中には絶えず笑がさしこんで居た。不動さんへのまがりっかどに来た時Hは向うから来た夫婦づれを見て、
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「いい気で居らあ、ちっとのろいナ」
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と云った。
まだ若い旦那さんが奥さんの洋傘をうでにひっかけて笑いながら歩いて来る。奥さんは鼻の先ばっかり白い、髪を不器用につかねた、草履でほこりをあげあげする、白っぽい縫の半衿が馬鹿に形につり合って居ない、頭のなさそうな女だった。これだけをすぐ見た千世子は鼻声でこんな事を云った。
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「そんな事は必[#「必」に「(ママ)」の注記]して云うもんじゃあありませんわ、いかにも独身者《ひとりもの》らしい言葉じゃありませんの」
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あの高い段々を登る時はいつものくせで(千世子は小供の時から父や何かと歩いてもきっと相手のうでに自分のうでをからみつけるくせがあった)Hと源さんのうでに両うでをひっかけてひきずりあげられる様にしてらくに上った。うすっくらい拝殿の中にまだ若い僧のねそべって居たのが千世子の大きな笑い声にとび起きて赤いかおをしたのが気の毒の様にも又馬鹿馬鹿しい様にも思えた。
一廻りして下に下りた。千世子は何にもわだかまりのない様なカラッとしたかおっつきをして四方のものをすばしっこくながめ廻した。ほんとうを云えば斯うやって歩いて居ると云うよりもあんなひがんだ心持で自分の心を一寸の間でも不愉快にさせた源さんにかたきうちをしてやるのがうれしかった。三人は広っぱを小さく一っかたまりになって歩きながら、
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「随分俗っぽいところですネエ」
「あの家並の茶屋に黄色い声でほざいてる女達がよけいに気に入らないじゃあありませんか」
「あの声につられるマットン・チョップ(間抜もの)もあるんですかネエ」
「案外なものですよ、十人十色世間は広いんですから」
「又時間をつぶして来ようとは思えないところですわネエ、そうじゃあない?」
「すきずきですよ、すきな人もないではありますまい、キット、君は?」
「サア、すきませんネ、こんなところ、二度と来るもんですか」
「いまいましそうですネどうしたの? 私知ってますわ!」
「そんな事を云って居るもんじゃあないんですよ、――」
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Hはこんな事を云って一寸いかつい目つきをしてわきにひっかけて居る千世子のうでを押した。
下をむいてクスクス笑いながら、
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「ハイハイ」
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と何もかにもをまるめてうのみにする様な返事をした。
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「ここの栗めしや竹の子めしって随分下らないもんですネエ、そりゃあおどろくほどですよ、不美味《まず》くって……」
「そう、いずれ何々めしなんてこんな家並にする様になっちゃあ素人が作ったのより不美味いものになっちまうんですよ、デモ若し御給仕に来た女が自分の気に入ったら我慢するかも知れませんワ」
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千世子は遊びぬいた男が云う様な事を云った。源さんはそっぽを向きHは千世子のえりっ首を見ながら笑って居た。
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「私もうこんなところに居ずとようござんすワ、妙華園に行きましょうネ、近いから、いや?」
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一番奥の茶屋の赤い毛布の上に腰を下すとすぐ我ままらしく云い出した。渋いお茶をのんで居たHは、
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「もういやになった? 行ってもいいけど、源さん君は?
いいでしょうつき合っても……」
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羊かんをたべて居るのにかずけて源さんは合点したっきりだった。
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「じゃそうしましょう、でも千世子さん歩ける?」
「歩けまいと思えば誰が云い出しなんかするもんですか、キット歩きます、どんな事になっても……」
「自分は歩くつもりだって足が云う事をきかなくなったら困るじゃありませんか」
「歩かして見てから云って良い事ってすワ、早すぎます、今っから」
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千世子はおせんべを掌の中でこまっかくかきながら云った。
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「オヤ、何故私は大きいまんまかじろうとしないんだろう、気取るつもりでこんな事をしたんだろうか……」
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クスリと歯ぐきの間で笑って向うに岡持を下げて居る男と懸命にしゃべって居る娘の黒い横がおを望[#「望」に「(ママ)」の注記]めた。二人の話して居る事もととのわない下手な馬鹿げた事の様になって千世子の頭の中に想像された。
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「姐さん」
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Hがわるさをする様なかおっつきをして呼んだ。
話に身を入れて居る娘はきこえないと見えてふり向こうともしない。
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「一寸来てちょうだい」
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千世子が持ち前のかんだかい声で云うと娘はあわてて下駄を横ばきにしてかけて来た。
Hはからになったきゅうすを出しながら、
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「大分もててたネ」
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と云って人の悪い笑い方をした。娘はパッと顔を赤くして、見っともないかおに落ちかかる毛をあげあげして茶がまの方に行った。
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「ぶきりょうなあの年頃の娘がかおを赤くするなんて妙ないやな感じを起させるもんですわねえ」
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千世子はさとった様に小声でHに囁いてはばせまの帯を貝の口にした割合に太った後姿を見た。
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「同性じゃあありませんか、味方をする筈のもんですよ、年だってそんなに違ってもしないのに……」
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Hは何でもないと云った様に云って濃い髪を撫でた。女で云えばヒステリー性の人の持って居る青白いしまったたるみのない手、それと同じ形の手が黒いかみの林の間を白鳩の様にとび廻るのを美しいと思って千世子は、片方の目ではHの美しい手を片方の目では気まずいかおをして居る源さんを見た。茶屋を出てからも妙にそそのかされた気持で、並木の歩くに気持の好い、何となく斯う、画にある様な綺麗な小石の光る道をふところでをしながら筈[#「筈」に「(ママ)」の注記]とゆらゆらあるいて楽しさと苦痛の時間を長くしようとして居た。
両肩を張って二人にぶつかりながら歩いた。甘ったれる様な意味のある様な様子をして居るのが源さんに気に入らなかった。
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「何故そんな風にして歩くのみっともないじゃないの?」
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源さんはいまいましいと云う様に云った。
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「こうやって歩きたいから……ただそれ丈よ、――たまにこんな所に来た時は自由なあけっぱなしの気持で居るんが好いんですワ」
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源さんに返事をしながらHを見て心は囲りの景色にうばわれて居た。一足早めて源さんは二人の先に立った。
そして二人のする話をもれなく聞こう聞こうとしながら又今日ばかり馬鹿に意地の悪い千世子にそのけぶりをさぐられまいさぐられまいとあせるととのわない身ぶりに却って心持を見すかされて居た。
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「ネエHさん、人間なんて妙な感情をもつ動物じゃありませんか。その人達の思ってもしない事を自分一人で思ってる様に考えたり、それであくせくしたり気をもんだりネ、でもそんな事は女が多いでしょうネエ、男でもありましょうか」
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千世子は斯う云いながらHのせなかについて居た葉を小指でつっつきおとした。
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「そりゃあ人間なら男にだって女にだって有る事でさあネ、それに又、世の中が段々複雑になって行くとある程度までそれも必要になって来るんだからしようがありませんネ」
「いやな事ですわネエ、私なんか自分ではキットそんな心をもってないと思ってます、だから私はやきもちやきじゃあありませんわ」
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千世子は源さんに見せつけてやりたい様なHが何とか思わせぶりな事でも云えばいいになんかとさえ思って居た。丸木橋の杉の森の遠くに見える川の上に立った時千世子は夢を見る様な目つきをして、「マア……」と云ったっきり今にもそこに座りそうな様子をした。何とも云えない快活な自然の景色は見て居ると段々体がとけ込みそうになるほど広く広く遠く遠く少し水蒸気のあるうす青い空には美くしいまぼろしと自然の音律を作ってする呼吸とがみちて居た。遠くに見える杉森は頭の下るほどに尊げに足元の水はかすかな白い泡沫と小さい木の葉をのせて岸の小石にささやきながらその面には一ぱいの微笑をたたえて歩いて行く。
あまり美くしい景色に会うとほんの二三秒は気が遠くなる様に目にも心にも何にもうつらないまっ
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