には千世子は涙をとめて居たけれ共Hの眼の中にはこぼれそうに涙があった。二人は、何のわけで涙をこぼしたんだかお互に知らない、それでもどっかでお互の心がそれを知りあって居るらしい気持がして居た。
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「歌でもうたいましょう」
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 ふだんと同じ声でHは云った。
 二人の好きな曲をひきながら千世子は目をねむって居た。一つ一つの音が胸の中にしみ込む様で段々かおがあつくなり体がふるえて来て涙が又こぼれた。
 こらえて千世子はHに涙を見せまいとして弾きつづけたけれ共とうとう象牙の鍵板の上に頭を下してしまった。ゆるやかに歌をやめたHはそっと見て居たけれ共、ソーッと千世子の頭を抱えてから庭に出る戸をあけて出て行った。つかれた様にふるえて声をたてないばっかりにして千世子は泣いて居た。
 Mが来ないから悲しいんでもない、何がなくってかなしいんでもない、若い女によくある、只わけもない悲しみなんだろうか? そんな事ならあんまり下らない見っともない事だ。
 千世子は若い娘のやたらに淋しいとか悲しいとか云う様な事をすきがって居ない。
 感情的なのを、いやだと云うんじゃあない、それをむやみと表白して「私淋しゅうござんすわ」とか何とか云ったりするのがきらいだった。それだもので何のために泣いて居るのか? と思ったらいつの間にか涙はとまって居た。そのかわり恐ろしいほどの陰気さと疑が雲の様に湧き上って来た。「妙だ!」引っからびた様な目つきで千世子は思った。おや指の腹でうなる様な音を出してそれにききほれながら年よりの様なかたまったかおをして居た。Hと源さんは庭の方から高く笑いながら入って来た。
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「どう? もういい?」
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 源さんの口元にはさっきっからのつづきらしいわけの分らない笑がのぼって居た。
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「この人達は自分の笑いたい事をさんざん笑ってその笑のおのこりをもって来て『どう?』なんかって云ってる」
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 千世子はカーッとしてでくの様の頭をふった。
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「少し気分がよくないらしいんですねえ!」
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 Hは千世子の気むずかしい眉つきを見ながら云って長椅子に源さんと並んで腰をかけ、源さんは時々千世子の方を見ては体をゆすって居た。おしにされた小鳥の様にだまったまんま二人は椅子によって居たが、
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「きりだけやってしまいますから……」
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 Hは云って立ち上ると源さんは千世子を見つめて居た目をあわててHの手に注ぎながら、
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「どうぞ。私も何かしましょうから」
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とばつを合せたつもりで下手な返事をした。
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「千世ちゃん単純生活をかりて来ますよ、ネ? いいでしょう、そいからこないだのは本箱の中にしまって置いたから……」
「そう、そんならそうなさいあれの原書もあるワ、正面の棚の上から二番目のはじの方に……キット」
「僕はこの頃フレンチを独りでやってるんだけど……貴方もやって御覧な……そんなに骨も折れないから……楽しみに好い……」
「でも今のところは出来ない、毎日こんな風をして居るんだからこの次の日曜に目黒に行って気分がわるくならなけりゃあ少し位つめてもいいけれ共……」
「ほんとうにそうだっけ、でも見たとこでは何ともないもんだから……」
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 こんなまとまりのない知れきった様な事を御丁寧に話し合って居るのがつまらなくってしようがなかった。椅子の後に頭をぶっつけながら、
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「何か面白い話はない? 一寸も張り合いがないじゃあないの、こんな事話し合って居たって……」
「そうさネ……」
「それはそうと今日一体何曜?」
「今日? どうして忘れたの? 木曜ですよ!」
「じゃこの次の日曜まではじきネ」
「そうらしゅうござんすネエ、あしたは金曜でその次は土曜で……」
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 Hが向うを向いたまんま笑いながら云う。
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「貴方のは十八番ですわネエ、ろくでもない」
「口下手な方が尊いんですよ」
「でもはなしか[#「はなしか」に傍線]が女にはありませんわ」
「ほんとうにそう云えばそうだが……ちっと妙だナア……」
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 あんまりおどけて居たんで笑をつまみ出された様に「ハッハッ、ハッハッ」と調子をつけて笑った。
 衿を合わせながら入って来た母親は二人をつかまえて北海道の話をし始めた。いくどもいくどもお祈りの文句の様にくり返してきかされて居る千世子は自分の部屋に入ってK子のところに手紙を書き始めた。まとまりがつかないで始まり一字が思う様に出て来なかった。
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「どうせ一日か二日すれば会うんだから……」
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 こんな事を思ってうす青のライティングペーパアを原稿紙ばっかりのかみくずかごの中に点を打った様にコロッと一つなげ込んだ。
 一番おしまいの紙くずをなげ込んだ時、
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「千世子さあーん」
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 Hが呼んだ。インクにふたをして居ると、
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「うたいたいんですよ」
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と又どなる。
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「行きますからまって……」
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 手の甲をせわしくシュシュとこすりながら、
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「あれひくんです、あれ」
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 Hがこう云っただけで千世子は Adieu を弾いた。Hの声がいつもより倍も倍もきれいにきこえた。「お天気のせいだ」千世子は斯う思って丸味のあるその声に頬ずりしてやりたいほどに思えた。
 ひき終えて二人はかおを見合わせてわけもなくかるく笑った。
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「いつも弾いてもいいうただ」
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 Hはため息をつく様な声で云ったのも気持につり合って居た。
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「御仲間に入れて下さい」
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 源さんが入って来た。
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「源さんは私達が二人で居るので不安心に思ってるんだ、そいで又二人で居るのがきらいなんだ、何てんだか……」
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 源さんが笑いながらかたごしに譜をのぞくのに千世子は斯う思って「眼の囲りの筋を一本だってゆるめやしない」と云った様にとりすまして居た。
 夕飯の手伝いを云いつけられていやなかおをした働きぎらいの千世子は八時頃になって、
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「お先きへ――私気分が悪いからもう寝ますわ、あしたは学校に多分行きましょう」
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 こんな事を云ってじきにねてしまった。
 翌朝夜が早かったんで五時頃に起きた。又例の寝間着のまんま西洋間に行って火にあたりながら歌を読んで居た。
 七時頃っから千世子は本をしまって学校に行くつもりで仕度しはじめた。着物を着かえて時間割を見ると数学。いかめしい字で千世子にかみつきそうにがん張って居る。
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「いやんなっちまう、せっかく行こうと思えば」
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 うらめしそうにその字をにらみながら千世子は迷った様な様子をして立って居た。
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「止めよう、こんな気持で行ったって何が出来るんだ」
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 なげつけた様に云って又西洋間にもどった。歩きながら、
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「阿母さんが、『お前はいくじなしだよ、ほんとうに一寸も我まんがない』っておっしゃるだろう」
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 こんな事を思って妙な笑い方をした。
 Hのわきに腰をかけて何のわだかまりもない様にスースーと引けて行く線を一日中見て居た。出がけに父親が、
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「人間は頭だって……しっかりせんけりゃあいけない、体を大切にするんだよ」
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と云いながら千世子の頭をかかえた事がいつもの事でありながら千世子にはやたらに思い出された。
 何となく気弱な様な自分の心を引きたたせ様引きたたせ様と千世子は骨を折った。
 その日は話のたねのつきた様に目黒行の事ばっかり云って居た。
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「又いかないんかい、いけないじゃあないか」
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と云おうとした母親は千世子の眼が感情のおだやかでない時に起る一種わけもわからないするどい光りをもって居るのを見て、早くねろ早くねろと暮れ方からすすめて居た。

        (七)[#「(七)」は縦中横]

 日曜日はかなりの天気で千世子は健康らしいかお色をして居た。
 千世子は何をするんでも三人と云うかずはすきでなかった。二人がはなしをすれば一人がぽかんとして居なければならないキットすきが出来る。そんな事を思って居る千世子は今日三人で行くと云う事もあんまりこのましくなかった。
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「誰かも一人行く人はないだろうか、若し場所をかえてならという人があれば少し位のところならかえても好いから四人になりたい」
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とまで云った居た。それだけ千世子は大好きなものずくめななりをして出かけた。田端の停車場に行く間幾度も幾度も空を見上げてHは、
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「いい日ですネエ、歩くのにつり合ってますネエ」
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といかにも気に入ったらしい口つきで云って居た。
 千世子はいつもほどしゃべらないで白い足袋のつまさきで小石をけとばしたり、Hのかるそうな洋服すがたと源さんのマントを着た大きな影をちょいちょい見くらべたりなんかして歩いた。
 割合に山の手はすいて居たけれども真向いに居る一人は二十五六の、も一人は二十位の女が悪ずれした目つきをして二人の間にはさまれてツンとして居る千世子の風の変った髪やじみはでな着物の着こなし方なんかをわざわざきこえる様に批評するのが気にさわってたまらなかった。千世子は「何がたか……」と思い上った様な目つきをしていかにも矢場女らしい鼻ぴくなかっちまりのない顔をジーッと見つめた。
 向うの女も始めは、
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「何だ! 生意気な世間知らずのくせに!」
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と云った様に見返して居たけれ共、千世子の神経的な目を見つめて居られなくなってフッとわきを向いてつれと顔を見合わせた。千世子は勝ちほこった様にうす笑いをして肩をゆすった。
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「どうしたの? かんしゃくを起した様な」
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 Hは源さんとして居た話をやめて千世子にきいた。
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「かんしゃくを起した? ――なんでもありゃしない、こんな好い日なんですもの」
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 千世子はうれしそうな笑い方をしてHのかおをしげしげと始めて会った人の様にして見た。袖を内ショ話をする時の様にHがひっぱった。その時の気分で千世子は濃い甘ったるい様な、うそにしてもそうした言葉をHの丸い声で云って貰いたかった。内気な小娘のする様に千世子は首をかしげた。
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「一寸! 前に立って居る男を!」
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 すばしっこい目つきをして前に立ちはだかって居る男を見上げた。
 荒い縞の背広を着てあくどい色のネクタイをいかにもとっつけた調子に結んで居た。
 ニキビの一っぱい出た油ぎってニチャニチャする様な二十五六の男だった。
 上から三つ目の貝ボタンの根にきりきりといたいたしく女の髪が巻きついて居た。
 そのわきに話して居るまだ十七八の小僧にさえ千世子は眉をぴりッと動かして、落ちついた眼色でいかにも下等らしく見える男をにらんだ。いつまで立っても二人の男は何か意味のありそうな下びた笑いをやめなかった。
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「何て見っともないんだろう」
[#ここで字下げ終
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