生えて来そうな気持じゃありませんか、飛行器にのったらいいでしょうネエどんなにか」
「いい気持ですけど斯うやって見上げてるのはもういやですワ、貴方の声でも何でもが頭の上におっこって来る様な気がするから……」
「又くせが出ましたネエ、でもまあそいじゃあっちから御入んなさい、そしても少しはなしましょう、母さんもさそって御あげなさいね」
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 千世子は合点を一つして縁側から上った。
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「阿母さん、Hさんのところに行って話しましょうよ、貴方にもいらっしゃいって」
「そうかい、でも私はこれをしなくっちゃあならないからネエ、後で行きますってそお云い」
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 阿母さんは手にもった小布をふって見せた。何をして居るんだかわからなかったけれ共、
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「じゃネ、あとで……」
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と云って西洋間に行った。あったかい日をうけてかおをポーッとさせながら、長椅子にHはよっかかったまんま目をつぶって居た。いきなり大声ではなしかけ様とした千世子は一寸どまついて口をもぐつかせてそのそばに腰をかけた。
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「綺麗なかお色をしてる」
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 千世子はすぐそう思うと一緒に自分もより以上きれいに違いないと思って悪がしこい笑い方をすばしっこくして一寸羽織の行をひっぱった。
 Hの目を覚まして居るのをさとって居る千世子は、つんとすましたゆるみのない顔をして細っかいでこぼこのある紙の面が複雑な美くしさにてって居るのを見ながらしずかな自分の耳なりに気をとられて居た。
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「何故こんな事を始めた?」
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ときかれたら返事の自分でも出来ない様なつっつかれた気持でHはほんとうに眠った様にまつげを一本もゆるがせないで今につり合わない事を思って居た。
「何故私は千世子の笑って居る時にはいつでも笑って居るんだろう。千世子が気むずかしくて居る時は私までいつの間にか重い気持になって居る――どんな時にでも思い出してもふるえる様に腹立たしさと悲しさをあたえたのも女だと云う事を忘れずに居なくっちゃあならない。
 私はただ一人のあたり前の娘として千世子を見て居なくっちゃあならないけれ共一日一日と立つにつれて千世子を私からはなして置きたくないものになって来た。今は斯うやって自分の心をいい悪い又そうでなくっても考える事が出来るけれ共――千世子を私は――
 でも私自分ではそんなに若い心持は持って居ない様に思って居た
 〔以下、原稿用紙一枚分欠〕
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「神様が一寸手いたずらに私と云うものを作ったんじゃああるまいか? それが私の頭の中にこんなやたらに発達した感情や一寸も割合に進まない事なんかがあるんじゃあないんだろうか?
 何にかになれそうに見せかけて置いてポッカリしょいなげを喰わせた様に何でもないものにほかなれない様にして仕舞うんじゃあるまいか?」
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 こんな事をかなり真面目に考えたりした。二人は「吾が袖の記」について話し合って居た。母親のこの頃の文学の批評はあんまりうれしがらない事だったんでHの鉛筆の芸をやって居る白い指の先を見ながら考える事はやめなかった。
「そりゃあ少時《しばらく》の間は羽ばたきもしようし、羽根もためそうさ、さて飛ぶ段になっては――」と云う言葉は「その前夜」のベルセネフの云った事だけれ共、自分を偽って自分を思うまんまにおもちゃにしてたのしむ何かが云って居る事に違いない様にも思われる。
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「何どんな事があっても勝手になんかされるもんか」
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と云う反向[#「向」に「(ママ)」の注記]の心がパッともえるすぐあとから小っぽけな人間のはかない反向[#「向」に「(ママ)」の注記]、はかない努力、死にかかった虫を針の先でつついてはそれに刺撃させられてかすかに身をもがいたり鳴いたりするのを見てよろこぶ様にその通りな事を人間にしてよろこんで居るものが目に見える様だった。
「こんな日にMでも来て呉れなくっちゃどうしようもなくなってしまう」目をつぶって組んだ手の上に頭をのっけて、
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「阿母さん」
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 つっぷしたまんま千世子はよんだ。二人は千世子の居るのなんか忘れた様に気込んで話して居た。
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「阿母さんてば」
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 小娘の云う様にじれて千世子は呼んだ。
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「どうしたんだエ、又かい」
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 Hと一緒に立ち上って千世子のそばによった。
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「又? どうしたの? あんまり生暖かいからでしょう」
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 千世子は身ぶるいが出た。あんまりしなやかな世間知らずの若様の様な口調で云ったHの言葉や態度がかたくなった千世子の心の中にスーッととけ込んで行った。ねむくなる様な気持になって、
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「少し……でも何でもありゃあしないの、二人とも私の居るのを忘れた様にしていらっしゃるからのけものにされて居た様で……」
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 つっぷしたまんま右の眼のすみでHをみながら千世子は云った。
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「何だろう、まるで赤坊の様な事を云ってるネ。さっき、『吾袖の記』を話していたらつい、貞操と云う事になっちゃってねエ、ほんとうにお前なんか忘れたんだよ」
「そう、でも今日はそんな話するより何か美味しいお菓子でもたべた方がいい」
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 千世子はケロンとしたかおで云った。三人のまだ笑いのとまらないうち、
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「山田の源さまがいらっしゃいました」
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 女中がとりついで来るとすぐそのあとから千世子がいつでも「育ちすぎたんだ」と云うほど大きな商科に入ってる従兄が入って来た。
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「ヤア」
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 二人は男のだれでもがする様にかけ声をかけあってわけのわからない笑いがおをしあった。Hはしばらくはなしてから又製図台に向った。
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「随分御不沙汰ですネエ、学校がいそがしかったんですか」
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 母がきく。
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「エエ論文の材料を集めてたんで今年になってから始めてですネエ」
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 源さんはいつもの君子の様なおっとりした調子で云った。
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「何の論文?」
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 千世子は少し馬鹿にしたらしく唇をぴりぴりふるわせながら云った。
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「何って、貴方には云ったって分りませんよまるで何にもしらないんだから」
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 小さな小供に云ってきかす様な口振りがかんしゃく虫をつっついた。
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「そんなに見下さずとようござんすわ、どうせ源さんの書く論文じゃたいていねえ……」
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と云って小鼻をぴョんとひょこつかせた。
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「女らしくないよ!」
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 号令をかける様に母親は注意した。
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「Hさんも、そんなになさらずといいでしょう、少し御仲間入りなさいよ!」
「そうですワ、皆がかおを見合わせて居るのに一人背中を向けた人が居るって云うのは、白粉のむらについたのよりいやなもんですわ」
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 千世子は合槌をうった。
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「大変きどった云い様をしましたネエ、そいじゃあそっちを向きましょう」
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 Hはつま先で椅子を廻してこっちを向いて、源さんの顔とHさんのかおが並んだ。
 だまってHのかるく動く口元を見て居た瞳を源さんの五分がり頭にうつそうとした時源さんがさっきっから自分を見つめて居たのを知った。すきをねらわれた様な馬鹿にされた様な気になって奥歯のすみに息をためた。そして見すかした凝視を源さんの瞳の中になげつけた。
 源さんはすぐ横を向いた。勝ちほこった心になりながら大切なものを守る様にソーッとHの白い額を見て居た。
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「いつもになくだんまり虫だネエ」
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 ひやかす様に云う母親のかおを一寸見て、千世子はかたをゆすぶって「フフフ」と笑った。
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「ネエ、千世ちゃん、お正月早々病気だったんだってネエ、まだ学校には出ない? もういいの?」
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 話す折がなくって居た源さんは「ネエ」にやたらに力を入れて話しかけた。
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「そうなの、ついこないだから起きてるんです、もう一二日したら出ましょう」
「大切にしなくっちゃあネ……この次の日曜には目黒あたりに行って見よう、いいでしょう?」
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 源さんは無闇とうれしい事でもある様に例にないはずんだ声で云った。
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「でも又あの人達も行くんでしょう?」
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 一緒に連れて行かなくっちゃならない弟達のめんどうくささを思って眉をひそめながら千世子は云った。
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「又始まった、いやなら行かなけりゃいいさ、いつでもあれだ我ままものだネエ」
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 母親はひったくる様に斯う云ってHと源さんに賛成をもとめる様に目をやったけれ共、二人ともよそを見てたもんでしまつのわるくなった目を籐椅子の編目をくぐらせてカーペットの花模様の上におっことした。
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「どれ――御馳走の指図でもしようか」
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 母親はものぐさそうにウンとこしょっと云って台所の近い西の戸から出て行った。
 千世子はやたらにつかれた頭になって来た。一番深い椅子を選んでクッションを頭にあてながら二人の話をきいて居るうち、いつの間にかうたたねをしたものと見えて、目を覚した時体には赤い繻子の羽根ブトンが巻いてあった。
 源さんは裏で弟達とテニスをして居るらしくおもみのあるボールの音がきこえて居た。
 Hさんは懸命に線を引いて居たが身じろぎする音に気がついてふりかえってやさしい笑がおをしながら、
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「寝ましたネエ、まだ頭がすっかりよくないんですよ、さっきつかれたらしい様子をしてらっしゃると思ってたら……」
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 製図台に後手をついてそり身になりながら目をこすってる千世子のかおを見て云った。
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「どの位たったでしょう?」
「せいぜい一時間位なもんでしょう。そのふとんはあんた源さんが阿母さんにたのんで出してもらって来たんですよ、そいで貴方にきせてあげたんですよ」
「ヘエ……」
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 気分のはっきりしない千世子は気のない返事をして居た。だまって羽根ぶとんの影の多い赤い色を見て居るうちにやたらにすきだらけの様なかたい淋しい心持になって涙がにじみ出して来た。
 Hはまだ千世子を見つめて居る。その眼からさける様にそっぽを向きながら、頭の髄からしみ出る様な涙のこぼれるひやっこさを感じて居た。男の前で涙を見せるなんかって云う事は千世子のきらいな事である。けれ共身動きも出来ないほどわけのわからない感情がたかぶって来た。頭をたおしてクッションの中にうずめた。柔かい中で、頭はガンガンに鉄の玉の様になってた。
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「どうしたの?」
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 低いしずんだ声でHはきく。眼の中に涙の光って居るのを千世子は見つけた。それをどうのこうのと云うだけの余裕は千世子にはなかった。
 Hは足の先を見て部屋の中を歩き始めた。幾度も幾度も廻ってから暗い方を向いてHは祈り始めた。うつむいて胸に手を組んで祈って居る様子を千世子は涙にぬれた眼で見つめた。Hが祈りをやめた時
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