り]
と云われながら罪のないかおをしてねてしまった。
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「アアそうだっけ、さっき興津から葉書が来てあした夜かえって来るってサ、Hが。オヤ、もうねたのかい」
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母親の低い声で云うのは夢心地できいて居た。
(五)[#「(五)」は縦中横]
興津から帰ったHは見違えるほど血色がよくなって快活な眼色をして居た。高山先生の御墓の絵葉書と名所カアドを千世子に呉れた。
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「沢山勉強が出来ましたろう」
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Hは笑いながら云った。「マアそんな事云うもんじゃありませんわ」なんかとこんな時云う事はだれでも――どの女でもする事だ、瞬間に千世子はそう思って、
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「エエ、エエ、そりゃあ勉強が出来ましたとも」
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と云ったあとから、こんな言葉をつかっても「そんな事あるもんですか」と云うのと大した違いはないと思って苦笑いをした。
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「貴方私の大好きな額を少し黒くしていらっしゃった」
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千世子は気にかかる様に云った。
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「馬鹿な――そんな事云うもんじゃないよ、人から何とか思われる――」
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母親はさえぎって云った事を消してしまうと云う様に手をはげしく横にふって大業にしかめっ面をした。
かなり更けるまで景色の好い事や妹の大きくなった事を話した。話を聞きながら千世子の目の前には人気のない冬の海辺の舟が腹を出してほされあみの細々とひかって居る所を強い波のとどろきに気をひかれながら、遠い事を考えて歩いて居るHの様子が目の前にうかんで居た。高山先生のお墓には自分も埋めて欲しいほど気持よさそうに思えた。Hは帰りしなに上り口の敷石のところでこんな事を云った。
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「私はどっちが自分の家だか分らないようになってネエ」
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だれもまってないまっくらな家にかえって行って一言口もきかずにだんまりで下女のしいた床に寝てしまわなければならないHの様子を思って千世子はさしぐまれる様になった。
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「それでもマア好いサ」
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わけの分らないこんな事を云って、
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「お嬢様はHさんのところに嫁《い》らっしゃれば丁度好い」
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といつだったか女中がにやつきながら云ったのを思い出した。その晩千世子はとんだりはねたりが千も万も千世子の体をつつんではねくりかえった夢を見て朝早く目覚めてしまった。
翌日Hが来て製図をしながら話したのは千世子に手紙で云ってよこした様な婚礼の話だった。
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「あんな女をすきになれったってなれませんねえ。お金が世の中のすべてだと思って居る御仲間ですもの、いざとなれば御亭主と金仏をとりかえまいもんでもない……下手なおしゃれがすきでねえ、いやんなるほど妙に大胆なとこのある女ですもの」
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そんな事を云ってHは他人の話をうけうりして居る様に平気に笑いながら話した。
三四日前から千世子にはねられない晩がつづいた。悪い夢にうなされたり、興奮したり考え込んでしまったりしてウトウトとすると夜の明けてしまう事が多かった。やたらに囲りのものに刺げきされたりあんまり感情が動きすぎたり、頭の重いのや食事の進まないのはただじゃあないと千世子は自分でも思って居た。
毎日毎日追われる様に書かなくっちゃあならない事が沢山ある様で居て何からして好いかわからずあんまり感じすぎて手が動かなくなったり一度書いた事を又くり返して書いて見たり、只さえ神経的な千世子の頭はよっぽど変調子になって来た、かお色も青く目もくぼんでいた。
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「あんまり夢中になるからだよ、学校になんか行くのやめてお前、なおさなくちゃあいけないじゃないか」
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母親は不安心らしい眼色をして当人よりも気をもんでさわぎたてた。千世子の体をよく知って居る医者は見ないで臭剥を調合してよこした。そうして電話に出た代診はクスクス云いながら「毎日これを召上って九時におやすみになれば十日でなおるそうでございます」と云った。
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「何だろう、人を馬鹿にして居る、私がもしもっと重い病気になって急に死んだらどうするんだろう」
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と、Hになだめられても、母親が何て云ってもきかないほど腹を立てた。
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「それも病気のせいなんだよ」
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すかす様に母親は云って額をさわったりした。
翌日朝、強い目まいがしてたおれてからジッと床についてしまった。昼間ねて居るのにきたなくして居るのはいやだと云ってシイツも西洋洗濯から来たばっかりのをしかせて枕も羽根を干した方のを出させて紫のビロードの夜着の衿にローズの香水を少しまいた。そしてその中に自分は袖の思い切って長いメリンスの友禅の着物に伊達巻をしめて髪をすっかりのばして横になった。枕元にはすきな本を並べてはりまぜの枕屏風を置いた。
夢中になってすきがって居る人の詩集を抱えたまんま眠った様なさめた様な気持で目を細くあいたりつぶったりして居た。何も考えず、何もしないで居るくせに一週間位てつ夜をつづけた様に頭はつかれきって一人で枕から上げるのはむずかしいほどで、目のそこに絶えず五色の渦が巻いて居た。夜になってから九度ほど熱が出た。頭の中でお湯がにえくり返る様な気がして、目を開いたまんま千世子はポーッとなって居た。小声にブツブツ口小言を云いながら何も彼も忘れはてた様なかおをして寝入ってしまった。そして翌朝目が覚めるまでは夢さえも見なかった。
起るとすぐ、
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「ゆうべはよくねたのに頭が重くってしようがない」
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不平らしい声で千世子は云った。
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「寝る間にのんだ薬の中にかるいモルヒネが入って居たせいかもしれないし又、ゆうべあんなだった今日そんなに急によくなる筈もなしさネ」
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母親は丁寧に説明してやった。だまって首をふった千世子の頬にはかるい笑がうかんだ。連想しやすい頭の中にはモルヒネが強すぎて寝たまんま死んで行った人の話、ポーの早すぎた埋葬の事、ジュリエットの事なんかがすぐうかんだ。
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「かりに私がモルヒネがつよすぎてすっかり死んだ様になってしまったとする。私の知ってる人達は泣きながら前から私の云って置いた通り髪を長くとかして一番好い似合う着物を着せて体のまわりにはいっぱい花をつめてガラスの四方を銀色に光る金具でかざってある中にもって居るすきな指輪だの一つ二つ書いたものや、本と一緒に入れて呉れる。そうして土の中に入れられる、十日ほど立ってフッと生きかえる、私の体は前よりも一層力がこもってきれいになって居る、土の外に出ると、先ず自分の色の白くなったのに驚く。それから家に行く。家のものは幽霊が出る事を信じて居るあの一部の人達の様につっぷしてしまうに違いない、足元をよく見てから、
『マア、お前ほんとうの千世かい』
ふるえながら阿母さんが云って手を握って見たりかおをなぜて見たりする。そしてほんとうの私だと信じられた時のよろこび様はマア、どんなだろう?――」
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千世子はこんな事を想像した。その日はなぜだかガラスの棺をこわす時の努力、その時の見っともない様子、又、土の間をのがれようとするひきしまった何とも云われない様な顔つき、顔色、手で土をかく恐ろしげな形を思う事はそうっとかくして置く様にして置いて居た。
それから三日ほど千世子はねて居た。その間Hはいつもと同じ様に西洋間で製図をして居たけれ共お茶時に紅茶とお菓子を銀の盆にのせてわざと目八分にささげて入って来るおどけた姿、子供の様に他愛もない事に大声で笑う事、むずかしいかおをして真面目な話をしだす見つめる目つきや、うす笑いする口元なんかが自分の生活からはなして置かれないものの様に見ないで居ると云う事がものたりないすきがある様に感じた。鉛筆の先を削りながらフッと千世子の思い切った様に弾き出すヒラリッとおどった手つきを思い出す事もあった。そんな時にはいつでもHは「フフン」と人事の様に鼻の先にしわをよせてこの頃漸く育って来た感情を自分で信じる事はこのまなかった。
(六)[#「(六)」は縦中横]
それは随分温い上気しそうな日だった。
Hは光線をよく入れようと南に面して沢山ある出まどをすっかりあけはなした、白い紙は光線のさすところだけうす桃色ににおって居た。
白い額に落ちかかって来る濃い髪を上げあげしながらHは軽い気持になって自分のすきな子守唄をうたった。Slumber Slumber ゆるいなだらかな諧調の声を胸のそこからゆすり出す様に張って歌った。
不意に庭の木のしげみからかるい若い女の声が伴奏の節に同じうたをつけて合わせて居る、Hはフイと歌をやめた、それと一緒にパッタリとその声もやんだ、うす笑いしながら又うたうとその声もつづく。
Hはうたいながら斯う思った。
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「妙にいつもより好い声を出して居る、つやっぽい、いかにも甘ったるい声を出して居る、どうしたんだろう、キット様子もいつもよりきれいになってるかも知れない、ほんとうにくすぐる様な声だ……」
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歌を一つうたいおわるとすぐまどから首を出してそとを見た。木蓮の木の下に小形の籐椅子をおいてひざの上に本をひらいて千世子は座って居た。
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「千世子さあーん」
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Hはパッと開いた花の色の様な声でよんだ。フッとこっちを見て千世子は白い歯を光らせながら自分の身丈よりよっぽど高いまどの下に立った。
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「どうして? もう好い」
「エエ、好いことは好いけど貴方は一つ家に住んで居ながらろくに顔も出さないで……女王はおこっておいでになります」
「どうーぞお許しあそばして女王! それはそうと今日は好い日じゃあありませんか、暖くってしずかで、そう思いましょう?」
「好い日ですワ、ほんとうに、でもこんな日には只はずんだ様な気持になるばっかりで、考えるなんて事は一つも出来ないお天気です……」
「ようやっと今日起きた人がそんなに考える必要もないでしょう……それに又考えたって」
「もうその先はわかってますから――」「貴方は考える事のすきでない口ばっかりの女が御すきだと見える」
[#ここで字下げ終わり]
人の悪い笑い方をしながら千世子は云った。手をのばして千世子はまどのふちに指をひっかけ、Hはのり出して上から見下して話して居る自分達の様子に千世子は芝居のある場面を思い出して居た。
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「めったに庭に出ない人が今日はどうしたの?」
「何故って一々そんな事に説明をつけてる人なんかめったにありゃあしませんわ」
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千世子はすぐそれにつづけて、
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「でも気になるんなら云ってあげましょうか?――少し妙だ!」
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と笑うかん高な声が遠くの方にひびいて行った。
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「そんなに云わずといいじゃありませんか、何心なく云った事を――」
「そいじゃもう云いません。今日どっかへ行らっしゃらない? 歩るくに丁度好い暖さで気もかるいし!」
「まだかるはずみですよあんまり、今日とあした位はしずかにして居なくっちゃいけません、臭剥はまだのんでましょう」
「イイエ、悪い時だけなんです、あんまりつづけるとくせになってきかなくなっちゃいますもの。じゃ、今日はおとなしくしてましょう、でも何だか出て見とうござんすわね」
「いい気持ですネエ、ほんとうに、背中からコー羽根が
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