くのを見て居る事が出来た。はでなお召の着物の上に袂や袖口にインクがついて居る銘仙の羽織をひっかけて火の気のわざとない部屋でまじめな気持で一字一字をたどって行った。一句の書きなおしもしずに一日に三十枚四十枚と書ける事は夢中になりやすい千世子を一日中居るか居ないかわからないほどしずかにうす笑いやため息ばかりつかせて居た。
くせを知って居る母親はかるたのまねきや新年の会なども体の良い様に千世子には云わずにことわって呉れた。
健全な目つきと顔色をして毎日毎日勉強して居た。三四度よこしたHの手紙にはあっちのおだやかな生活の状態ときたえられた様にハッキリした自分の頭の事や結婚しろとすすめられるうるっささなんかが書いてあった。特別にいい手紙でもなければ又役に立つ事でもなかったけれ共千世子は雑誌の間にはさんで置いた。
大してHに千世子が刺げきされたと云うわけではなくっても幾分か今までと違った色が生活の上に加えられたと云う事を信じないわけには行かなかった。
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「妙なもんだ」
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とびはじめの蛙の様に腰がすわらない気持でふいと口に出す事もあった。かなり風をきまぐれに午後から本屋に行った千世子はかえって三四冊のかなり重い包みを卓子の上に置くとすぐいつもする様に部屋の中じゅう見廻してからフイとHの手紙のはさんである雑誌をわけもなく手にさわったと云うばかりでとり上げた。
前とちがったところに手紙ははさんで有って巻方も一寸ゆるんで居た。
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「阿母さんが見たんだ!」
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千世子は斯う思ってうす笑いをした、そしてそれを手にもったまんまその時の母の様子を想像した。
私が電車に行った頃、母さんがここに来た、せかせかした眉つきをして机の引出しなんかを大まかに見る何にもない本棚の押し込みを見るここもからっぽ、少し気ぬけのした様な溜息を一つしてから本だらけの部屋の様子を籐椅子に腰かけてながめ廻すそれから何の気なしに手近にあるこの雑誌をとりあげる、妙にふくらんで居る、阿母さんは一寸まゆをひそめる、それからこわいものを見る様にあけると手紙が入って居る、瞳子[#「子」に「(ママ)」の注記]の中に神経的のひらめきが上る、始っから一句も見のがすまいと読んで行く、中には生活の状態だの千世子に体を大切にしろだの阿母さんを思ってあげろのと書いてある、ほんのちょっぴり安心して又始めっからくりかえす、それですっかり安心して巻きながら「あれが知ったら何か云うだろうが……何云ったってかまわないサ、親の権利で監督のために見たんだと云えばすむ事だ」と思う。
三枚ほど紙のまくれたのを知らないでそこにはさんでもとのところに置いて一寸指で表紙を叩いてそそくさと出て箪笥の前に座って「もうじきにかえるだろうが……」と思って時計を見る。
こんな事がはっきりと目の前にうかんだ。
手袋のフックをはずしながら、
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「阿母さん只今、私居ない間に何か変った事がありましたか?」
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母親の前にぴったり座って千世子は人の悪い笑い様をした。
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「寒かったろうネ、変った事って何もないにきまってるじゃないか? 一寸の間だもの――」
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母さんは一寸ゆるめた口元をたてなおして、
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「知ってるナ」
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と思った。
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「あのネエ阿母さんフフフ」
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千世子の心には母親の思って居る事感じて居る事が鏡にうつすよりもはっきり種々《イロイロ》な色や光りをもってうつって居た。身動きもしないでピクピク動く眉や笑いそこねた様な唇を見て居た、すまない事だけれ共千世子の心の中にはかるいくすぐったい様な気持と又、自分をこれほど案じて居て呉れるのを知った感謝の心等がまぜこぜになってわき上って居た。
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「阿母さん安心してらっしゃい大丈夫ですよ、そんな事は!」
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千世子は笑いながら云った。
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「アアまあとにかく着物御きかえよ炬燵にかけて置く様に云ったからしてあるだろう?」
「エエ、じゃきかえましょう。もう今日はどっからも電話なんかかけてよこさないでしょうネ、来たってことわるんだからかまわないけど……」
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千世子が独りごと云う間に母親はせっせと裏衿をつけて居た。フックリとあったかい着物を着て部屋にとじこもってかって来た本を赤い線を引き引き読んで行った。
夕方飯田町の叔母のところから電話で、今夜病院の人達をよぶから手伝うつもりで来てくれと云ってよこした。気のすすまない千世子に無理やりに髪を結わせて一番似合う紺の縞のお召をきせて車にのせて母は出してやった。
(四)[#「(四)」は縦中横]
三十分も車にゆられて向うへついた時上り口には男下駄がいっぱいならんで居た。広間の方からはかっちまりのない男特有の笑声がくずれる様に起って来る中に、叔母のビードロ玉の様にすき通る声がきわだってきこえた。茶の間から足音をきいて出てきたばあやは「マアようこそ」と云って顔を見た眼で一文字にうら袖の色までねめまわして、「皆さまお待ちかねでございますよ早くあちらへ、サア」と云う時には敷石にそろえた草履の縫模様を見て居た。千世子がまだ手袋をぬいで居るのにせきたてて広間につれて行った。障子を細くあけて叔母に何か云ってだまって千世子の背中を押してやりながら後からしめてソソクサとかわききった足音をたてて出て行った。うす紫の様な煙草のけむの中にいくつもいくつも瞳がこっちを見て居たけれ共、別に赤くなるほどのはずかしさも、うつむくほどの余裕のない態度もしなかった。
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「めいでございます、林町の、どうぞよろしく」
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チラッと千世子の方を見ながら叔母は皆に紹介した。叔母にしたよりも一寸ほど低く二ひざほどいざりでて笑いながらこんな時につりあったおじぎのし様をした。
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「そうですか、これは……」
「よく御噂をうけたまわって居ります」
「新花町の友人ともあれだそうですナ」
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いくつもの声がこんな事を云った、そんなかで一つでも千世子が返事し様と思ったほどととのった言葉を云った人はなかった。千世子はまるで三十を越した人の様なゆとりのある様子で又心持で二十人ほど並んだ男を観察しはじめた。
どの人もどの人もそれほかしらない五つほどの下すなしゃれをくり返しくり返して「オーヤオヤ」と思わせる人達ばかりの様に見えた。中ぶらりんのお医者様特有なフニャフニャな様子をどの人もどの人ももって、長いひげをピョンとはりがねの様にしたのと、短かくこの頃のはやりにきったのとあるかなしかの影の様なおもわせぶりなひげを一本ずつ並べてある人達などだった。わりに目はしがきいて居そうなかおをして居るくせに半間な人、やたらに通がる男、たえずあごをさすっては、「エヘヘヘ」と思い出し笑いをして居る人、着物の衿を人さし指と中指でしごいてキューキューと音をたてて下前を一寸ひっぱって袴のひもの結び目をポンと叩く事を目ざましい手ばやさでする男、どれもどれもこんな人のところへわざわざお嫁に行く人があるんだろうか? と思われる人達ばっかりだった。口元では笑いながらはぐきで「つン」とせせって叔母の横がおを見た。
杯が廻ってからの男達の様子はよけいしだらのない愚かしいものに見えるばっかりだった。あっちこっちで「お嬢さん」とへべれけな声を出してよんだりした。中には「奥さんの御めいごさん」なんかとおどろいて頓死しそうな間ぬけな呼び方をする男さえあった。酔って手をふるわせながらまだあふれそうな杯をにぎって袴からひざにダラダラと斬りかけられた様に酒をこぼしてあわててふこうとする拍子にたもとの先をお碗の中に入れたりする男の様子を千世子は手伝ってふいてやろうともしないで眉をひそめて奥歯をがチがチ云わせてにらんで居た。(こんな人達の女房なんか年中おはしょりをずるっかずるっかして袖口の光った着物を着て、ひまさえあれば塩豌豆をかじりながら火鉢の灰にへのへのもへじをかく事ほかしらない方がいいんだ)こんな事を思って居た。畳にお酒のしみを三つも作って御飯がすんだ。
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「次の間で歌留多をしましょう」
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叔母の発言で男達はヒョロヒョロした足どりでとなりの部屋に入った。千世子は柱によっかかって男の大きな毛むくじゃらな手が札をさぐるぶざまな形を見て居ると、叔母にすすめられて千世子も仲間入りする事になった。
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「しっかりやってくれ給え」
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傍に座った生っ白い男は云ってしょうばいに似合わないきたない爪のある手で千世子の丸い肩を打とうとした、フッと躰をそらしたので他愛もない形に男はひじをついてしまった。
千世子はかんしゃくを起した様に白い爪のやたらに小さい指さきを動かしてそこいら中をなぎたてた。赫色の毛むくじゃらの手が只わけもなくさわぎまわる中をルビーとダンラをうきぼりにした指輪のある手でスイスイと札をぬいて行く、おまけに手は白し爪は桜色になって居る。千世子は愚な民をその白い手で征服して居る女王の様な又いくじない動物達の群の中を胸をはって進む女獅子か女豹の様なかがやかしいおごった気持になった。
男達が自分をふざけさせて見たくってしようがないで居ると云う事を千世子は知って居る。一人の男は千世子をくすぐろうとしてつねられ、一人はわざと自分からつきあたって行ったくせにしりもちをついた。何故男なんて云うものはこんな時にうんざりするほどふざけたがるもんなんだろう。
千世子は男と云うものの一番みっともないところをさらけ出された様な不快な気持になった。そして思うともなくHのあの高く澄んだ額やしっかりしたくびの筋肉と丸い声を思った。
十時一寸過ぎ頃千世子はたまらなくなって帰ると云い出した。叔母がとめてもきかなかったものをあんな男達が何と云ったってもとよりとまると云うはずもなく、白い毛のボーアを富[#「富」に「(ママ)」の注記]げに巻いて黒い手袋をはめて千世子は敷石の上に一っぱいにかがやいて居る草履をはいた。男達はお互によりかかりあいながら見送りに出た。車にのってから、
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「皆さんさようなら」
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お義理に声だけを笑った様に千世子は云った。
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「御かげで大変愉快でした」
「又いつかお目にかかりましょう」
「素敵ですよ」
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なんかと胴間声をはりあげた男も有った。まだそう年をとらない千世子の車夫は提灯をかじ棒にさげながら、
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「へへへ」
[#ここで字下げ終わり]
と笑ったのが千世子には又とないほど馬鹿にされた様に感じた。さわぎからのがれたおどろくほどの静かさとかるい動揺にすんだ水の様な心になった。くらい宙に時々青白い火花の散るのや、青や赤の町の灯がはにかんだ様にまたたいて居るのはその中に人間が住んで居ると思わせないほど詩的な神秘的な輝きをもって居た。雪駄を踏[#「踏」に「(ママ)」の注記]いてこんな路を歩きたいと千世子は思った。ふっくりとふくれた様な道を車ははずんで行って、銀の輪に時々小礫がぶつかって響くリリーンと云う音、かるい足袋の地面を馳る音。
眠気をさそう様なそれ等の音は一つの音楽となって鼓幕[#「幕」に「(ママ)」の注記]をなぜて行った。フッと耳たぼをくすぐられた様な気持で瞳《メ》をあげた時居眠りをしそうになって居たのだと気がついた。只もうやたらにかるいはしゃいだ気持になって千世子は家につくとすぐ母親にあまったれて、
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「お前はよっぽど妙な女だねエ」
[#ここで字下げ終わ
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