だ、早くおし」
[#ここで字下げ終わり]
 父親はこんな事を云って千世子の羽織を後からぬがせた。紫矢絣の着物に赤味がかかった錦の帯を小さな横矢の字にして赤い緒の草履をはいて千世子は深い砂を一足ぬきにして歩いた。
 若がえった様に父親は小石をひろってなげたり、小さい弟と一緒に波頭とおにごっこをしたりして居た。それをよそ事の様にして千世子は大きな自然の前にうなだれて居た。病み上りのふだんにもましてセンチメンタルになって居る千世子の心の底にドドーッドッドッという波音は厳とした威厳をもってしみ込んで行った。
 波のよせるごと引く毎に洗われる小石は、ささやかな丸い輝をお互に放して、輝きと輝きとのぶつかるところに知る事の出来ない思いと音律がふくまれて波の引く毎にはささやかな石がお互の体をこすり合わせうなずき合って無窮の自然を讚美する歌を誦して居た。
 千世子はこの微妙な意味深い音にききほれてしばらくの間は夢中に、それからさめた時にはこの音にききほれる自分が人間だと云う事は情ない事に思われた。
 暗闇の中に物をさぐる様に千世子はどこかにとけ込んでその姿をかくした自分の今まで持って居たほこりをたずね廻
前へ 次へ
全192ページ中138ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング