……」
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 Hはだまって障子の棧のかげを見て居た。
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「何考えていらっしゃる? 私が御嫁に行く行かないは何にも貴方に関係のある事じゃあないじゃあありませんか、こんな事をそう考えるもんじゃあありませんワ」
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 千世子はHの心の上にドッカリと座ってしまった様に笑った。
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「千世ちゃん一寸台所に御いでナ、いい事教えてあげる」
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 廻し戸のそとから母親がこえをかけた。
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「何? 今行きます」
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 紅い緒にたすきをかけられた様に見える足を自分ながらきれいに思いながら、紫色の煙のこめて居る台所に行った。
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「ここにおいで、そうして私のするのを見て御いで」
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 母親は小器用な手をして海老のあげものをして居た。
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「何? それが私に教える事?」
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「オヤマア」と云う様に云った。
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「お前知らないだろう? こんなもののあげ方なんか?」
「知ってますわ、その位の事、母さんは又お嫁のしたくにこんな事教えるなんて云っていらっしゃる」
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 キイキイ千世子は笑いながら茶の間にかけもどった、Hは西洋間に行ったと見えてそこには見えなかった。
 小声にうたをうたいながら廊下をすべって西洋間に行った、長椅子の上にHはつっぷして居た。
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「どうなすったの? 頭がいたい?」
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 Hの頭の弱いのを知って居る千世子はやさしく云った。
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「いいえそんなじゃあない――ちょっとばかり」
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 Hは泣いたあとの様なこえで云った。千世子はHの思って居た事が大抵はわかったけれ共それをさける様に、
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「いけない事――少し葡萄酒をあげましょう、そして頭を押してあげましょうねえ」
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 戸だなから千世子は小形のグラッスに白いブドウ酒をもって来た。
 Hはそれを娘がする様におちょぼ口をしてのんだ。酒に弱いHの目のふちや頬はポーッと赤らんで来た。千世子はHの頭を両手にはさんで一寸の間押してやった。
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「有難う、もうよくなりました」
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 低い声でHが云った。千世子は何でもに合点が行ったと云う風に首をふって、
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「こうして居る方が幸福だ!」
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 千世子は斯う心の中で云って居た。
 台所の器具のぶつかる音や母親の女中に何か云いつけて居るこえを遠くの方にききながら二人はひっぱりあげる事の出来ない様な、深い深い冥想にしずんで居た。
 千世子は自分の頭に血がドックドックとのぼって行くのが分るほど考える事がこみ入って来た、目をつぶって手を組んでひざをかかえて身動きもしないで居た。
 Hは細い目をあけてととのった調子で考え込んで居る千世子の白いくびにフックリもり上って居る胸に気を引かれた、Hのまだ若い血のみなぎって居る身の中からは一種異様の誘惑が起って来た。
 Hは椅子から立ち上ってカーペッツに足をうずめる様に歩き廻った。
 千世子はしずかに目をあけると一緒に顔がまっかになった、何の意味だか千世子自身にも分らなかった。千世子は衿をかきあわせると一緒に立ち上って少し足元をふらつかせる様にして一番そばの戸から自分の部屋に入った。波うつ様な心地になって原稿紙に向ってふるえながらペンをにぎってジッと紙の肌を見て居た。感情の走った千世子の心の中に木の肌、草の葉、花の蕊なんかにこもって居る目に見えない物が心をなぜる様にくすぐる様に快いものになって入って来た。
 千世子の目から涙がこぼれた、紙の上に丸あるいしおらしげなしみを作った。心の中に「今の心ほどしまった純な創作をどうせ私に作る事は出来ない、この紙はその涙のあとで、下らない字が書かれるよりよろこんで居る――私も又この方に満足して居る」
と思って居た。
 千世子が感じて涙をこぼす時は、たった一しずくやけそうにあついのをこぼすかそれでなければ夕立の様に心まで心のそこまでひたりそうにこぼすかどっちかであった。
 その時は一しずくほかこぼさない涙であった。千世子の心の中には限りないよろこびと感謝と目に見えないものを祝福する心でみちみちて居た。
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「アアア私は何て幸福なんだろう、私はどうしてこううれしくなれる心をもって居るんだろう」
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 ほほ笑みながらくびをふってはね上る様な心になって居た。
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