「Hさん、まだ悲しいかおをしていらっしゃる?」
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 戸の外からこえをかけた。
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「いいえ、いらしゃい笑ってますよ」
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 Hはまるで異った心持になったらしい声で立[#「立」に「(ママ)」の注記]く云った。
 戸をあけた時Hは千世子の心を見て何も彼もしった様に笑った。
 二人はピアノの前に座ってソナタを弾いたり、ゴンデサードを弾いたりしてかるい気持になって居た。
 夕はん一寸前に父親がかえって来た。元気のみちて居る目をしてHのかおを見るなり、
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「ヤア、御いででしたね、けっこうです」
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と大きいこえでいかにもうれしそうに云ってかるく腰をまげた。
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「とうとう又一日御厄かいになりました」
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 さっきの事なんかなかった様にHさんは笑って居た。Hが、
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「私はいけないんですから」
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と云うのを無理にのましてうすい葡萄酒によわされてねむがって居るのをつかまえて、父親はうたをうたうやらしゃべるやらして大さわぎをしてた。
 千世子は、三人の興じて居るのをわきで見ながら自分の領分にふみこまれた様ないやあな心地で皆の笑う時も大方は唇をかんで居た。
 父親のした話の大半はHにお嫁さんを御もらいなさいと云う事だった。
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「貴方もう三十にもなりゃあ早い方じゃあありませんよ」
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 母親までこんな事を云った。
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「そうでしょうかネエ、でも私はまだまだもらいませんよ。死んででもと云う人にぶつかるまではネエ」
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 Hは少しやけになったような口調で云って居た。
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「他人の結婚の事なんか何故あんなにせわを大人の人ってのはやくんだろう」
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 千世子は世間をのぞいた事のない娘と同じ心持で思って居た。
 新しく買って来た古物を見せたり、今して居る事の相談をしたり、そうかと思うと、
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「どうですHさん一緒に踊りませんか、うちの奥さまはふとって居てとってもの事だ!」
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 こんな事まで云ってはしゃいだ。
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「早いもんですネエ、あれからもうざっと四月たって居るんですから……」
「ほんとうにネエ、もう貴方じき夏の仕度ですよ」
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 こんな事を二親は云って居た。Hは時々千世子の方を見ては、
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「云いたい事があるんだけれ共」
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と云う様な口元をして居た。
 十一時頃Hはあんまりおそくなると風を引くと云ってかえって行った。
 段々遠くなる下駄の音がパッタリと、飾井戸のあたりでやんだ。
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「オヤ」
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 千世子は小さく云ってのり出して暗の中をのぞいた。白いHのかおがまっくらの暗の中にういて居た。
 何かの霊の様にスーッと心を掠めて通りすぎられた様に感じながら、
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「さようなら、風ぜを引いたりなさらない様に」
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 千世子は云うとすぐ涙がにじみ出して来た。「たった一人ぼっちで……」こんな事もつづいて思われた。「アーア」ため息をつきながら重い気持で長い曲りの多い廊下をうつむいて歩かなければならなかった。

        (十)[#「(十)」は縦中横]

 幾日も幾日も気分のわるい日ばかりが千世子を呪う様につきまとった。朝は大抵にしてミルクをのんだり果物をたべたりして居た。
 夜一夜うなされどうしでまっさおな顔をして居る事も珍らしくなかった。
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「又何だか様子が悪い、どうしたんだろう」
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 千世子はこの頃やたらに変調な自分の頭をにらみつけながらしたい用事があっても我まんして早眠する様にして居た。気をつけていたわりがいもなく段々悪い方にばっかりなって行った。
 物覚えは悪くなる、かんしゃくは起す、やたらに悲しくなる、いりまじった感情ばかりもつ様になってじっとしてものをして居る事が出来ない様になった。弟の飲んで居るじあ燐をのんで居た。目の上が十日ばかりですっかりくぼんでしまった。
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「いやだネエ、又なんかい?」
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 母親はげんなりした様子をして学校からかえって来る千世子のかおを見ちゃあたって居た。
 あたり前ならもうとっくに寝入って居るはずの夜中の二時頃千世子は自分の体の上に大きなものがのしかかって来る様に感じる。にげようとしてもにげられずもが
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