一字が思う様に出て来なかった。
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「どうせ一日か二日すれば会うんだから……」
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こんな事を思ってうす青のライティングペーパアを原稿紙ばっかりのかみくずかごの中に点を打った様にコロッと一つなげ込んだ。
一番おしまいの紙くずをなげ込んだ時、
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「千世子さあーん」
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Hが呼んだ。インクにふたをして居ると、
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「うたいたいんですよ」
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と又どなる。
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「行きますからまって……」
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手の甲をせわしくシュシュとこすりながら、
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「あれひくんです、あれ」
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Hがこう云っただけで千世子は Adieu を弾いた。Hの声がいつもより倍も倍もきれいにきこえた。「お天気のせいだ」千世子は斯う思って丸味のあるその声に頬ずりしてやりたいほどに思えた。
ひき終えて二人はかおを見合わせてわけもなくかるく笑った。
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「いつも弾いてもいいうただ」
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Hはため息をつく様な声で云ったのも気持につり合って居た。
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「御仲間に入れて下さい」
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源さんが入って来た。
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「源さんは私達が二人で居るので不安心に思ってるんだ、そいで又二人で居るのがきらいなんだ、何てんだか……」
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源さんが笑いながらかたごしに譜をのぞくのに千世子は斯う思って「眼の囲りの筋を一本だってゆるめやしない」と云った様にとりすまして居た。
夕飯の手伝いを云いつけられていやなかおをした働きぎらいの千世子は八時頃になって、
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「お先きへ――私気分が悪いからもう寝ますわ、あしたは学校に多分行きましょう」
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こんな事を云ってじきにねてしまった。
翌朝夜が早かったんで五時頃に起きた。又例の寝間着のまんま西洋間に行って火にあたりながら歌を読んで居た。
七時頃っから千世子は本をしまって学校に行くつもりで仕度しはじめた。着物を着かえて時間割を見ると数学。いかめしい字で千世子にかみつきそうにがん張って居る。
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