してしまうに違いない、足元をよく見てから、
『マア、お前ほんとうの千世かい』
 ふるえながら阿母さんが云って手を握って見たりかおをなぜて見たりする。そしてほんとうの私だと信じられた時のよろこび様はマア、どんなだろう?――」
[#ここで字下げ終わり]
 千世子はこんな事を想像した。その日はなぜだかガラスの棺をこわす時の努力、その時の見っともない様子、又、土の間をのがれようとするひきしまった何とも云われない様な顔つき、顔色、手で土をかく恐ろしげな形を思う事はそうっとかくして置く様にして置いて居た。
 それから三日ほど千世子はねて居た。その間Hはいつもと同じ様に西洋間で製図をして居たけれ共お茶時に紅茶とお菓子を銀の盆にのせてわざと目八分にささげて入って来るおどけた姿、子供の様に他愛もない事に大声で笑う事、むずかしいかおをして真面目な話をしだす見つめる目つきや、うす笑いする口元なんかが自分の生活からはなして置かれないものの様に見ないで居ると云う事がものたりないすきがある様に感じた。鉛筆の先を削りながらフッと千世子の思い切った様に弾き出すヒラリッとおどった手つきを思い出す事もあった。そんな時にはいつでもHは「フフン」と人事の様に鼻の先にしわをよせてこの頃漸く育って来た感情を自分で信じる事はこのまなかった。

        (六)[#「(六)」は縦中横]

 それは随分温い上気しそうな日だった。
 Hは光線をよく入れようと南に面して沢山ある出まどをすっかりあけはなした、白い紙は光線のさすところだけうす桃色ににおって居た。
 白い額に落ちかかって来る濃い髪を上げあげしながらHは軽い気持になって自分のすきな子守唄をうたった。Slumber Slumber ゆるいなだらかな諧調の声を胸のそこからゆすり出す様に張って歌った。
 不意に庭の木のしげみからかるい若い女の声が伴奏の節に同じうたをつけて合わせて居る、Hはフイと歌をやめた、それと一緒にパッタリとその声もやんだ、うす笑いしながら又うたうとその声もつづく。
 Hはうたいながら斯う思った。
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「妙にいつもより好い声を出して居る、つやっぽい、いかにも甘ったるい声を出して居る、どうしたんだろう、キット様子もいつもよりきれいになってるかも知れない、ほんとうにくすぐる様な声だ……」
[#ここで字下げ終わり]
 歌を一つ
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