かかった時はお互にすまして居ましたネエ」
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と云うほどまで独身で内外の事をさばいて居るHは母親にこまっかい経済の事まで相談して来るほどだった。
 木枯が情ないほど吹きまくって青白い月の水の様にかがやく晩、明け近くなるまで話し合った事があった。
 昼間のいそがしさにつかれて夜になるとじきに眠気がさす笑上戸の千世子の父親は、
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「年をとると眠るのがたのしみですワイ、私はもう御免こうむります、いねむりをすれば奥様に叱られますから……」
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 おどけてわざと腰をまげ、年よりじみた風をして寝室にひっこんでしまった。三人はしめきった西洋間で赤くもえ上るストーブの焔を見ながら、特別に造られた国に住む人間の様なわだかまりのない気持で居た。
 それからそれへとうつって行く話に、亢奮しやすい千世子はあたり前の事を話して居るのに一つ一つ言葉が心のそこにしみ込んだ様に涙ぐんで居た。Hや母親は自分達の若かった頃の事を話して、
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「ほんとうにこの人なんか幸福なもんですねえ、一日よんだり書いたりばっかりして居たって『困ってしまうねえ』って云われる位のもので寒中の水のつめたさなんて一寸だって知らないんでしょうねえ」
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 母親はこんな事を云って、着ぶくれて富[#「富」に「(ママ)」の注記]らしい顔つきをして足をのんきらしくふって居る自分の娘を見た。
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「ほんとうに千世子さんなんか幸福なんですよ、ねえ奥さん世の中に悲しい思い辛い思いをしない人がありましょうかねえ……」
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 Hは何か急に思い出された様な、又痛いところにさわられた様な目つきをして云った。
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「そりゃあ貴方、ないにきまってますよ、どんな富だ人だって尊い人だってそういう事はありましょう。悲しい辛い事があればこそうれしい事、たのしみな事が出来て来るんですものねえ。そうじゃあありませんか?」
「ねえHさん、先私がつまらなくってしようがないと云った時に、今と同じ事貴方は教えて下さったじゃあありませんか、うれしい事でも悲しい事でもを強く感じて居られる間が幸福ですわ。阿母さんだってそうでしょう、私はほんとうにそう思いますワ。ミイラ見たいにひっからびた感情になって生きて居たっ
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