れるのにはきまって居るのにピアノに向ってベートーベンのソナタを弾き出した。
 時々出て来る「あのこ」と云う声のきこえる時には規則はずれになるのもなんにもかまわずにペタールをふんだ。乱調子にそむいた心で自分がピアノを弾いて居るのにわけもなくヘッダの最後の舞台面を思い出した。
 自分とは何の関係もない事でありながら斯の音に似たなげやりな調子のととのわない音についで起ったあのピストルの音を想って身ぶるいをして手をやめた、何だか悪い事でも起って来る前の様に千世子は重い気持になった。字ばかりならべたてても一日中何となく落つかないイライラした気持に送ってしまった。
 寝しなにHは千世子に、
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「一週間ほど立ったら一寸行って来ようと思ってます、葉書――」
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と云ってHはなげつけた様に笑った。
 千世子はそれには返事をしずに「フフフ」と笑って立ち入られた様な気持になった。ざっと一月はなれずに居た千世子はHの性質や癖をかなりよく見つけてしまった。しんねり強い神経質な前までの経験の悪い悲しい経験でも善い経験に思いなして居る人、生活にとらわれて居ながら時々まるではなれたものの様に生活し自分等を見ることの出来る人、自信の強い人、女と云うものを二色の目で見て居る、矛盾の多い自分の心の輝きに自分でまばゆがる人、千世子には性質としてこんな事が知[#「知」に「(ママ)」の注記]った。
 羽織のひもをおもちゃにする事、
 ひじかけ椅子によった時にはきっと両うでをそれにかけて胸のあたりで指をくむ、
 お飯茶碗でお茶をのむ事のきらいな
 しつけ糸のやたらに気になる
 笑う時に多くまばたきをする事
 どの部屋にでも入るときっと上を見る
 指の先をひっぱる事
等がそんなに目立たないながらもくせであった。これ丈のくせを知りながら千世子はきらいな人だとは思われなかった。いつもすんだ晴れた声で丸く話をすることや、どこのこまっかい皮膚にでも男に有りがちのあぶらっこい光りをもって居ない事等が千世子が特別にうれしく思う事だった。
 Hがとまる様になってから母親の一層注意深くなったのは千世子も知ったけれ共、別に気にもせず自分は自分でする丈の事をすると云った様な調子に暮した。
 暮に近くなってから千世子の書いて居るものも半分ほどになったけれ共どうしても言葉つきや、みなぎって居る
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