この上なくいい感じのする事だった。途中まで来て千世子は巻いて居たかみをほぐしてその半分で顔をかくし灯をさきに出してすり足をして歩いた。
斯う云う時に斯う云うなりをして斯う云う心持でこんなところをあるいて居るのは、長くつづいた舞台面の一節をくぎったものの様だと思われた。
ふさわしい、いかにもつり合った言葉を一こと云って見たかった。けれども人間ぐさいろくでもない言葉を云ってぶちこわしてしまうよりはと千世子はだまっておどり上る胸をかかえて西洋間の前に立った。
うす赤い灯がチラチラとガラスの中にもえて居る、黒い人影がうごかずに居る、かるい歌ごえが戸のすき間からもれて来る。
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「マア……」
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今の心持にあんまりよくそぐった事をして居てくれると、今がまだ人のねて居る時であろうとか、何をうたって居るとかと云う事を云う余地考える余地のないほど千世子はうれしかった。
オパアルのように光るハンドルをもってそうっとあけた。うす青い暁の光線の流れ込む中に桃色のかさをかぶったスタンドがともって新らしい色をした薪からは御あいそうをする様にまっかな焔がチラチラと出て居る。厚いカアペットの上に紫のクッションを敷いてHはなげずわりに座って火を見ながら歌って居た。胸の貝のボタンが大きくまたたいて紺と茶の縞の千世子と同じ形の寝間着の背中はポッカリとふくれて居た。
ローソクを消すのも忘れた様に千世子は立ったまんまで居た。フッとふりかえったHはおどろいた様なかおをして云った。
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「どうなすった? 今頃――」
「ねられなかったんですワ」
「ねられない? 私も、だからこうやってさっきっからここに来てたんです」
「そう、だけどいいあけ方です事ネエ、部屋でさっきっからいろんな事を思ってよろこんで居たんですワ」
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千世子は夜はねなくっちゃあならないもんだって云う事を忘れてしまった様にうきうきした声で云った。そして火のそばにラシアの足台をもって来てそれに腰をかけて白い毛につつまれた足を二つ小さくそろえた。桃色の着物はスーッとゆるやかに流れて房のボッチがHの茶と紺の縞の房とならんで美術的な色や形をして居た。二人はややしばらくだまって薪のはぜる音をきいた。
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「あしたつかれましょう?」
[#ここで
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