あありませんか」
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って自分の云った事を思い出した。
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「どう云う点から云っても彼の人の年になっては奥さんがなくっちゃあ可哀そうだけれ共――」
「あの人はまだごくの若い心で居た時に思いがけない苦い悲しさを味わったから結婚なんて事を只感情的に考える事が人並より出来にくくなって居るんだ!」
「でも私はあの人の生活に手をさわってはいけないんだ、そうすれば悪い事が大抵は起るにきまって居る」
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 こんな事を思って居た。
 千世子はたった一人の男のために自分の生活の状態が変調子になって来たり、こびりついてはなれない感じをうけるなんて事はこのましくないいやな事だった。
 いくら何と云ってもHがすきだと云う事ばかりは千世子のどんな心ででも打ちけして、
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「いやそうじゃあない」
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と思わせる事は出来ないものであった。今まで思いつづけて居た事を拭ってしまおうとする様に空に覚えて居るサロメの科白をうたの様な声で云った。
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「ヨカアンナや、あたしはお前の体にほれてよ! お前の体はまだ鎌の入った事のない野原の百合の様に真白だ。
 お前の体は山の上のゆきの様に――」
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 目をつぶっていつの間に身ぶりまでして居た千世子は後の方から来る足音のまだ若い男だと云うのをさとるとすぐにスウィッチをぱッともちあげて、あっけにとられて居る油じみた顔の男の前を斜によぎって部屋に入ってしまった。
 母親は千世子のかおを見るとすぐに、
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「あした若しかすると小供達と源さんとHさんが来るってさ、四時にここにつくって……」
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 いかにも嬉しそうな声で云った。
「そう――いい事ねえ、迎に行ってやりましょう」そんなでもないと云った調子に千世子は云った。
 よみかけの雑誌をもった母の顔を見て千世子は時と云うものを考えなければ居られない様な気がして居た。
 その晩は随分おそくなるまで母親は千世子に自分の若かった時の事、姑が辛かった事などを話して居た。姑の辛さなどは自分の生涯うけずといい苦しみだと千世子は信じて居た。
 翌日四時までの時間がかなり長く感じられた。
「Hが来るかもしれない」と云う事が千世子の好奇心をそそった。

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