「早いもんですネエ、あれからもうざっと四月たって居るんですから……」
「ほんとうにネエ、もう貴方じき夏の仕度ですよ」
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 こんな事を二親は云って居た。Hは時々千世子の方を見ては、
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「云いたい事があるんだけれ共」
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と云う様な口元をして居た。
 十一時頃Hはあんまりおそくなると風を引くと云ってかえって行った。
 段々遠くなる下駄の音がパッタリと、飾井戸のあたりでやんだ。
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「オヤ」
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 千世子は小さく云ってのり出して暗の中をのぞいた。白いHのかおがまっくらの暗の中にういて居た。
 何かの霊の様にスーッと心を掠めて通りすぎられた様に感じながら、
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「さようなら、風ぜを引いたりなさらない様に」
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 千世子は云うとすぐ涙がにじみ出して来た。「たった一人ぼっちで……」こんな事もつづいて思われた。「アーア」ため息をつきながら重い気持で長い曲りの多い廊下をうつむいて歩かなければならなかった。

        (十)[#「(十)」は縦中横]

 幾日も幾日も気分のわるい日ばかりが千世子を呪う様につきまとった。朝は大抵にしてミルクをのんだり果物をたべたりして居た。
 夜一夜うなされどうしでまっさおな顔をして居る事も珍らしくなかった。
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「又何だか様子が悪い、どうしたんだろう」
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 千世子はこの頃やたらに変調な自分の頭をにらみつけながらしたい用事があっても我まんして早眠する様にして居た。気をつけていたわりがいもなく段々悪い方にばっかりなって行った。
 物覚えは悪くなる、かんしゃくは起す、やたらに悲しくなる、いりまじった感情ばかりもつ様になってじっとしてものをして居る事が出来ない様になった。弟の飲んで居るじあ燐をのんで居た。目の上が十日ばかりですっかりくぼんでしまった。
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「いやだネエ、又なんかい?」
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 母親はげんなりした様子をして学校からかえって来る千世子のかおを見ちゃあたって居た。
 あたり前ならもうとっくに寝入って居るはずの夜中の二時頃千世子は自分の体の上に大きなものがのしかかって来る様に感じる。にげようとしてもにげられずもが
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