「Hさん、まだ悲しいかおをしていらっしゃる?」
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 戸の外からこえをかけた。
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「いいえ、いらしゃい笑ってますよ」
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 Hはまるで異った心持になったらしい声で立[#「立」に「(ママ)」の注記]く云った。
 戸をあけた時Hは千世子の心を見て何も彼もしった様に笑った。
 二人はピアノの前に座ってソナタを弾いたり、ゴンデサードを弾いたりしてかるい気持になって居た。
 夕はん一寸前に父親がかえって来た。元気のみちて居る目をしてHのかおを見るなり、
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「ヤア、御いででしたね、けっこうです」
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と大きいこえでいかにもうれしそうに云ってかるく腰をまげた。
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「とうとう又一日御厄かいになりました」
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 さっきの事なんかなかった様にHさんは笑って居た。Hが、
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「私はいけないんですから」
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と云うのを無理にのましてうすい葡萄酒によわされてねむがって居るのをつかまえて、父親はうたをうたうやらしゃべるやらして大さわぎをしてた。
 千世子は、三人の興じて居るのをわきで見ながら自分の領分にふみこまれた様ないやあな心地で皆の笑う時も大方は唇をかんで居た。
 父親のした話の大半はHにお嫁さんを御もらいなさいと云う事だった。
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「貴方もう三十にもなりゃあ早い方じゃあありませんよ」
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 母親までこんな事を云った。
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「そうでしょうかネエ、でも私はまだまだもらいませんよ。死んででもと云う人にぶつかるまではネエ」
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 Hは少しやけになったような口調で云って居た。
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「他人の結婚の事なんか何故あんなにせわを大人の人ってのはやくんだろう」
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 千世子は世間をのぞいた事のない娘と同じ心持で思って居た。
 新しく買って来た古物を見せたり、今して居る事の相談をしたり、そうかと思うと、
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「どうですHさん一緒に踊りませんか、うちの奥さまはふとって居てとってもの事だ!」
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 こんな事まで云ってはしゃいだ。
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