のかすれた様な声をその人は持って居た。
 千世子は自分の部屋に入ると懐のいろんなものを机の上にならべた時母親に呼ばれて千世子は居間に行った。
 あけっぱなしの縁側のわきに座ると母親は自分の近い身内の者で千世子にもかなり近い人だと云った。
 柔かな厚い髪が額にかかって思いのこもった眼と白い良くそろった歯をその人は持って居た。
 肇と云う名だった。
 顔が細くて男にしては喉仏の小さいのや、少しずつひかえ目に内気に物を話すのが千世子には快い気持を起させた。
 初対面のほぐれにくい話の緒をもてあます様にして居る肇の態度がまだそうはすれない人の様に見せてじきに一つ事に熱中するらしく見せて居た。
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 又|度々《たびたび》いらっしゃいな。
 今度の時は御馳走してあげますよ。
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などと母親に云われて肇が帰るとまだ肇の小さい時の事なんかを話してきかせた。
 十二三になっても夜は一人で「はばかり」へ行かれなかった児だったとか、すぐ物を恐れる癖があったとか云うのがその様子に思い合わせて千世子にはうなずかれる様な節々が多かった。
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「先はいいしとやかな児だった。
 それからもう十年より沢山会わないで居たんだからどう性質が変ったか分らない。
 でも内気な気持だけは今だに持って居るらしい。
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 母親はこんな事を云った。
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「私は友達ってものもあんまりありませんから、気の向き次第いつでも上ります。
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 肇は自分の住居から一番近いと云う事と母親が女としては頭が有ったと云う事とで段々度々千世子の家へ来る様になった。
 来ても何をそう食べると云うでもなくしゃべると云うでもなく他処よりも木の葉の深々と繁って居るのを見たり、忘られた様な数多の書籍の裡から思いがけなく好い絵や言葉を見つけ出したりして居た。
 上品なこの来る度の無口さは千世子に、やがて口を開いた時に云う言葉の価値をいかにも大きいらしく思わせた。
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 貴方は一度|緒《くち》を解《と》いたらいつまででも話しつづける方なんでしょうねえ。
 そいでその緒をなかなかほごそうとなさらない。
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 たまに千世子はそんな事を云う事もあった。肇はにぎやかな、はでな処をわけもなく好いて居なかった。
 遠くからながめる夏の暮方の森林の様な心の色が何にでもおだやかな影を作って「我《が》」の勝《か》った張強《はりづよ》い千世子の心さいその影のかすかな影響をうける事さえあった。
 自分の好《この》み、自分の思想、などと云うものはまだそうよく知り合わない千世子に明す事は一寸もないと云って好い位だった。
 自分が進んで話を切り出し、自分が自分を明《あきら》かにする事よりも、人の云い出す話を静かに聞き、他人《ひと》を細々と観《み》るのがすきな人だとじきに知った千世子は始終自分のわきに眼が働いて居る様な気がして肇と相対して居るときには例え其の手|際《ぎわ》は良くなくってもあんまり見すかされないだけの用心をした。
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 何と云う事なし、私は落ついた「まばたき」の少ない眼で見られるのは堪らなくいやなんです。
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 肇に対して自分の知識を深遠なものにし、自分の思想と云うものを尊いものにして置きたい千世子はあんまり不用心に知って居るだけの事は話さない。
 お互に或る無形の鏡を持って照し合わせ様として居るのを又お互に知って居た。
 時々亢奮した目附で何か云い出そうとしてはフット口をつぐんで静かな無口になるのを千世子は興味ある気持でながめた。
 肇のすきこのみなどを千世子は話すまで千世子は聞くまいと思ったし、千世子のすきこのみ、毎日仕て居る事、などは同様肇は何も知らなかった。
 額《ひたえ》つき、眼つき、話しぶりで、大よその事は肇も知ったけれ共思って居る事の奥の深い処までその自分の想像をはたらかせない方が好いと思って居たのだ。
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 人なんてものはあんまり知らない方が好いですねえ。
 誰でも――お互に。
 私《わたし》は自分から進んで人を知りすぎて大抵の時はうんざりする。
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 千世子はこんな事を云う。
 何だったかの折にジーット一つ処を見つめながら、
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 尊い悲しみと、犯し難い沈黙は誰が持って居ても尊げなものだ。
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と云った肇の口調を千世子ははっきりとかなりの時間が経《へ》るまで覚えて居た。
 多くの人は犯し難い沈黙を持つ事は喜びもし口にもする、けれ共尊い悲しみと云う物を思う人達の数は少ないものだろう。
 心の正しい、直《すぐ》な人は喜びのみを多く感じると思うのは誤りである。
 笑いの影には悲しみが息づき歓楽の背後にすすり泣く悲しみがある。
 悲しみなしの喜びは世の中に必[#「必」に「(ママ)」の注記]してない。
 いかなる詩聖の言葉のかげにも又いかばかり偉大な音楽家の韻律のかげにもたとえ表面《うわべ》は舞い狂う――笑いさざめく華《はなや》かさがあってもその見えない影にひそむ尊い悲しみが人の心を動かすものであろう。
 悲しみと云っても只涙をこぼすばかりの悲しみではない。
 人は喜びの極点に達した時に或る一種の悲しみを感じる、その口に云えない悲しみが美の極点にも崇高なものの極点にもある悲しみである。
 その口に云い表わされない悲しみの心に宿った時、口に表わせない尊いすべての事がなされるのである。
 千世子は斯う思って必ず有ると信じる「尊い悲しみ」を愛して居た。
 自分の絶えず心に思って居る事を思いがけない時に話されたので千世子はそれをかなりの間覚えて居たのだった。
 けれ共自分の心から湧きあがった事でない限り一つ事をそういつまでも思いつづける事のない千世子なので久しい間とは云えじきに忘れて居た。
 千世子は常々《つねづね》、頭の友達と、形の友達を持ちたいと思って居た。
 頭脳の機関《からくり》が手早く働いてねうちのあるものを産《う》み出せる友達を持ちたがった。
 けれ共その望は到底みたされ様にもなかった。
 少し頭の細やかな、頭の先立って育った人達は或る時期にある特別に涙っぽい気持を持って世の中のすべての事の一端をのぞいて全部だと思い込む人達であった。
 心の隅に起った目に見えるか見えないの雨雲《あまぐも》を無理にもはてしなく押し拡《ひろ》げて、降りそそぐ雨にその心をうたせる事を何の考えもないうちにして自《みずか》らの呼び起した雨雲《あまぐも》の空が自然の空の全部と思いなして居る人達だ。
 そうして千世子は頭の友達に満足は出来なかった。
 自分は奇麗にしずとも美くしいものを見、美くしい裡《なか》に生きて居たい千世子が友達に花の様な人のあって欲《ほ》しいと思ったのはそう突飛な事でもなかった。
 千世子が自分から進んで交際[#「交際」に「つき合」の注記]をしたいと思うほど美くしいに[#「いに」に「(ママ)」の注記]は会えなかった。
 たった一度千世子はフットした処でわけもなくただスンナリと美くしい人に会った。
 忘られない様な見開いた眼と長い「えり足」を持って居る人だったけれ共横から見る唇がたるんでシまりなく下《さ》がって居たので一目見ただけで千世子の心の喜びはあとかたもなく消えると、今まで美くしいと思えた人が堪らないほどみっともなく思う様になった事があった。
 美くしくもなく勝《すぐ》れた頭を持って居ると云うでもない京子と気まずい思い一つしずにこの久しい間の交際[#「交際」に「つき合」の注記]が保《たも》たれて居るのは不思議だと云っても好い事だった。
 千世子とは正反対にただ音無しい京子の性質と何でもをうけ入れやすい加型[#「加型」に「(ママ)」の注記]性のたっぷりある頃からの仲善しだったと云う事が千世子と京子の間のどうしても切れない「つなぎ」になって居たばっかりであったろう。
 一言一言を頭にきいて話す頭の友達が出来そうなど云《い》う事はその人が何であろうとも千世子には快かった。力のある満ち満ちた生き甲斐のある生活を好《す》いて居る千世子にとって自分の囲《まわ》りをかこむ人が一人でも殖《ふ》えると云う事が嬉しかったし又満足されない自分の友達と云うものに対しての気持を幾分かは此人《このひと》によって満足されるだろうと云う深く知り合わない人に対しての良い予期も心の裡に満ちて居た。

   (二)[#「(二)」は縦中横]

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 夜が一番美くしい。
 昼間のまっすぐに通った大路は淋しい人通りがあるばっかりでいかにも昔栄えた都と云う事がしのばれます。
 貴方にも都踊は見せてあげたい。
 祇園の舞妓《まいこ》はうっかり貴方に見せられないほど美くしい可愛いもんです。
[#ここで字下げ終わり]
 自分で書いたらしい首人形のついた絵葉書に京子からこんな便《たより》があった。
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 貴方にうっかり見せられないほど――
[#ここで字下げ終わり]
 その文句を見て千世子は一人笑いを長い事した。
 自分の性質をよく知って居る京子がうっかり見せられないと云うのはほんとうの事だろうと思った。「美くしい」と名のつくものは何んでも千世子はすぐ好《す》きになったそしてもうはなしたくない様な気持になった、下らない子供のおもちゃでもまた立派な道具でも奇麗だとなるとすぐ自分の者[#「者」に「(ママ)」の注記]にしたくなって仕舞う。
 だから、奇麗だと思って居たものがきたなかったりするともうしんからがっかりして仕舞うのが癖だった。
 家《うち》の者達は何でも物事を奇麗にばっかり思って居る千世子はまるで世間知らずな小娘の様だなんかと云う。そんな時には千世子はむきになって「美くしさ」と云う事を説《と》く。
[#ここから1字下げ]
「美くしさと云うものはどんな物にでもひそんで居る、その表面には出て居ないながらも尊い美くしさを速《さと》く感じる事の出来ないのは一生の方《う》ちには半分位損をする。
 自然の美くしさをあんまりわすれかけると大変な事になって仕舞う。
 人工の美くしさにはかなりな批評が出来るけれ共自然の美くしさは批評をする事がなかなか出来ない。
 すき間も無い美くしさだから批評は入れられない。
 人の手の届かない美くしさを持って居るからだ。
[#ここで字下げ終わり]
なんかとはいつでも云った。
 永い間つき合って居る京子にこんな種類の話は幾度仕たかわからない。
 京子はあんまり熱中して話す様になると、
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 美くしさの気違《きちが》いさん
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と呼んだほどである。
 そう呼ばれても千世子は満足して居る。
          ――○――
 葉書をうけとって間もなく千世子は返事を書いた。
 そしてあんまり棒の太くない首人形をお土産に持って来て呉れるのを忘れない様になどと戯談《じょうだん》らしく書きそえた。
 女中にたのんで出させにやると入れ違いに肇が訪ねて来た。
 いつも来るときまって通す部屋に入れて千世子はいかにも喜んで居るらしい目つきでまとまりのつかない事をいろいろと話した。
 散歩に出た時の話だの旅行に行き度いと思うなどと一時間も立てばフイになって仕舞うほど実《み》のない下らない事を二人は話した。
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「ねえ、
 もう少しどうかした話はないんでしょうか?
「さあ、
 もう少しどうかした話しって。
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 上品な肇の沈黙がまたひろがって行く。
 千世子は大きな籐椅子に倚《よ》って肘掛《ひじかけ》に両肘をもたせて両手の間に丸あるい顔をはさんでじいっとして居た。
 どっちかが口を切らなければ斯う云う沈黙はいつまでもはてしなくつづくのである。
 何とはなし重っ苦しい垂幕《たれまく》の様な沈黙をやぶって口を開くのは大抵の時は千世子であった。
 その時さっ
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