千世子(二)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)無地《むじ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|度々《たびたび》いらっしゃいな。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)(一)[#「(一)」は縦中横]
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(一)[#「(一)」は縦中横]
外はしとしとと茅葦には音もなく小雨がして居る。
千世子は何だか重い考える事のありそうな気持になってうるんだ様な木の葉の色や花の輝きをわけもなく見て居た。ピショ! ピショ! と落ちる雨だれの音を五月蠅く思いながら久しく手紙を出さなかった大森の親しい友達の処へ手紙を書き初めた。
珍らしく巻紙へ細い字で書き続けた。
蝶が大変少ない処だとか。
魚の不愉快な臭いがどこかしらんただよって居る。
とか云ってよこした返事を丁寧に馬鹿正直な位に書いた。
三日ほどしたらいらっしゃいとも云ってやった。
白い無地《むじ》の封筒に入れたプクーンとしたのをすぐ前のポストに入れに自分で出かけた。
中へ落ちて行くのを聞き届けてから一寸の間門の前に立って、けむった様な屋敷町を見通した。
近所に住んで居る或る只の金持の昔の中門の様な門が葉桜のすき間から見えたり、あけっぱなしの様子をした美術学校の学生や、なれた声で歌って行く上野の人達のたまに通るのをジーット見て居ると、少し位の不便はあってもどうしても町中へ引越《ひっこす》わけにはいかない、なんかと思った。
入《はい》りしなに郵便箱をあけると桃色の此頃よく流行《はや》る様な封筒と中実《なかみ》を一緒にした様なものが自分の処へ来て居た。
裏には京子とあんまり上手《うま》くない手で書いてある。
あっちこっち返して見ながら、こんなやすっぽい絵なんかのぬりたくってあるものを平気で出してよこす其の人が自分の趣味とあんまり違って居る様でいやだった。
たった今自分が手紙をやった人がこんな事を平気で居る人だと思うとあんまり嬉しい気はしなかった。
部屋に帰ってあけて見ると、大森の見っともない町の不愉快さを涙をこぼすほど並べたててもう二日もしたらこっちへかえって来ると云ってよこした。
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行き違いになる――一寸千世子は思った。
まあ考えて御覧なさい。
目の下にはあの芥だらけの内海の渚がはてしなくつづいて、会う女の大抵は見っともなくお白粉をぬった女か魚臭《さかなっくさ》い女で――。
「おむつ」がハタハタひらめくと魚の臭いがプーンと来る、もうほんとうにたまらない。
やっぱりあすこの方が好いからもう二日たったら帰ります。
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そのほかに話相手のないつまらなさに、千世子に会いたい気持なんかを字につり合った口調で書いてあった、色の黒い背《せー》の高くて髪の綺麗ではっきりした口の利《き》けない友達の様子をなんか思い出したりした。
それでも来る日が心待ちに待たれた。
これぞと云った特長もないのに何故《なぜ》こんなにもう七年ほどもつき合って居るんだろうなどと云う事が妙に思われた。
一年も半年も会わないで手紙さえやりとりしなかった時はたびたびでもその次会った時には昨日《きのう》会った人達の様に何にもこだわりもなく打ちとける事が出来たのも、お京さんが思いっきりの音無しい人で自分が我儘な気ままな女だからどうか斯うか保《も》って居たんだ。
そうも思った。そしてお茶時にわざわざ、
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ねえお母様、お京さんはやっぱり大森がいやだって、もう二日したら帰るんだって云ってよこしたんです、雨が止《や》まなくちゃあ困る。
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京浜電車と市街電車で長い間揺られなければならないのに降りこめられては何かにつけて困るだろうなんかと思った。
京子の来るまでの三日は何にも仕《す》る事が無い様な顔をしてやたらに待ちあぐんだ。
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もう今日あたりはほんとうに来て呉れるんですよ、昨日《きのう》だって待ちぼけなんですもの。
[#ここで字下げ終わり]
母親に独言の様に云ったりした。
その日の夜千世子は何となし後髪を引かれる様な気持になりながら或る芝居に行って仕舞った。
かなり前から見たいとは思って居たけれど行って見ればやっぱりしんから満足出来るものではなかった。
時々舞台からフーッとはなれた気持になって今時分あの人が来てやしまいかなんかと思った。
それでも身綺麗にした若い人達の間を揉まれ揉まれしてゆるゆる歩いて居る時にはいかにも軽い一色《ひといろ》の気持になって居た。
クルクルに巻いた筋書を袂に入れてかなり更《ふ》けてから「まぶた」のだるい様な気持で帰るとすぐ京子は来たかと女中にきいた。
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ええいらっしゃったんでございますよ八時頃に。
お留守だって申上たら随分がっかりした様に御玄関にかなり立って居らしったんでございますからほんとに御気の毒でございましたよ。
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千世子は渋い渋い顔をした。
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まあそうだったのかえ。
すまなかった。
[#ここで字下げ終わり]
と云ったっきりのろい手つきで着物を着換えたりした。
帯の「しわ」をのしながら女中は京子が旅へ出かけるらしい事を云って居たなどとも云った。
翌日朝早く京子の家へ「今日は一日居るから」と云ってやった。
午後ももう日暮方になって京子は重そうな銀杏返しに縞の着物を着て手が目立って大きく見える様な形恰《かっこう》をして来た。
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随分待って居たんだけれど昨夜《ゆうべ》だけはどうしたんだか出掛けた処へ貴方が来たんだもの。
悪うござんしたねえ。
[#ここで字下げ終わり]
京子の千世子よりずっと大きい躰を見て云った。
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「いいえ、何んとも思ってやしない。
でもお留守だって云われたら変になったの。
どうだった事? あすこ。
「私の事なんかより早くあっちで何をしてたんだか御話しなさいよ。
ほんとうにまあそんな見っともない処でどうして居るんだろうとよく思って居たんです。
でもまる一月ですもの。
よく辛棒《しんぼう》した。
「何をするしないもあるもんですか。
あんな処に貴方が私位居たらほんとにどんなだろう、話すのさえいやだ。
それよりか私あさって[#「あさって」に傍点]っから西の方へ旅に出かけなけりゃあならないの。
「どうしてそんなに急に?
「何故だか知らないけどそうなったんだもの。
[#ここで字下げ終わり]
京子は伯父と一緒で一月ほどの予定である事や只遊ぶのが目的だと云った。
先から思って居る事だから嬉しいとか何か好い事が自分を待って居る様な気がするとも云った。
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「貴方は遊びに出かける方だから好い様なものの、私は一人ぼっちでお留守番だ!
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あんまりいそいそして居るのが不愉快な様でなげやりな口調で千世子はそう云ってかたい笑方をした。
帰って来てから相談する事があるとか考えてもらいたい事があるとか云って、
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「いくら私の前から望んで居た事でもこだわりのある気持で行くんだから、
嬉しさの半分はいやな相談から抜けられると云う事なんだもの。
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いかにも思いあまった事が有る様に云うとすぐ千世子は聞いて仕舞たかった。
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「何なんです?
何を考えてもらい事[#「い事」に「(ママ)」の注記]があるの。
「帰って来てから好いんですの。
そうさし迫った事でもないしするんだから。
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煮え切らない口調で話した。
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「でもね、
私はほんとうに真面目に考えなければならない事なの、
その事を考えると先ぐ感情が先に立つ、それを鎮めて冷静にして居なければいけないんだから――
やっぱり私一人では困る――
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不断あんまり物にこだわらない京子が今度ばっかりこんなにして居るのを思って大よそこんな事だろう位に京子の身に湧き上った事件を想像した千世子は今その事について考えなければならないほどにまで話《はなし》に深入するのをいやがった。
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「そんならそれは貴方が帰ってからにして。
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千世子は、こぼれそうな体《からだ》の処々《ところどころ》を細いのや太《ふと》いやの紐でくくって居る様な京子の体を時々ジロジロ見ながら、自分の今書こうとして居る筋を話して聞かせたり一寸した有りふれた話をした。
京都へ行ってからの事ばっかりを云って居る京子は、鴈次郎の紙治が見られるとか、純粋な京言葉を習って来るとか、いつもにないはでな口調で話した。
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「京都に貴方の体はつり合わない。
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むくむくしてかたい腕や、黒い手先をこすったりした。
これからざあっと一月又会わなくなると云う事等は一寸も悲しい事にも淋しい事にも思えなかった。
新らしい書[#「書」に「(ママ)」の注記]み物を二冊ほど持って京子はせっついて帰った。
立つ日も聞こうとしなかったし御大事に行らっしゃいなんかとも云おうともしなかった。
ましてステーションまででも送ろうなどとは夢にさえ思わなかった。
只旅に出る事ばっかりをそわそわして嬉しがって居るのが千世子にはたまらなく気にさわった。
けれ共翌日になるとこのまんま一日も会わないのはいかにも物足りなく思われて立つ時間を聞きにやった。
いよいよ立つ日には落ちては来なかったけれど泣きそうな空模様だった。
御昼飯を仕舞うとすぐ千世子は銘仙の着物に爪皮の掛った下駄を履いてせかせかした気持で新橋へ行った。
西洋洗濯から来て初めての足袋が「ほこり」でいつとはなしに茶色っぽくなるのを気にしながら石段を上るとすぐわきに、時間表を仰向いて見て居る京子の姿を見つけた。
奇麗に結った日本髪の堅《かた》くふくれた髷が白っとぼけた様な光線につめたく光って束髪に差す様な櫛《くし》が髷の上を越して見えて居た。
だまって先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐ後から軽く肩を抱えた。
急に振りっ返った京子は顔いっぱいに喜んで、
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「まあ来て下さったの、わざわざ。
[#ここで字下げ終わり]
そう云ったっきり千世子の手を振って涙含んだ眼で胸のあたりを見て居た。
そんなに時間もなかったので千世子は入場券を買って居るとわきに居た京子は、
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伯父ですの。
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と云って一人の男の人を引き合わせた。
うすい地のインバネスを被《はお》って口元に絶えず堅い影をただよわせて居る人だった。
その伯父と云う人は千世子に通り一ぺんの口を利《き》くとそのまんま赤帽の方へ行った。
ただ見かけただけだったにしろ、ろくに笑いもしない様な伯父と京都まで差し向いで居なければならないのかと思うと斯うやって満足して居る京子がみじめな様に思われた。
プラットフォームに入っては口もろくに利けないほど急《せ》いた気持になって持って来たチョコレートの折《おり》をわたしたりしわになった衿をなおしてやって居るともう発車の時になって仕舞った。
コトリと動き出して、京子の窓が三間ほど向うへ行った時千世子は何の未練《みれん》もない様にいつもの通りの歩きつきでサッサッと停車場を出て仕舞った。
急に開けた往来の真中に立って見知らずの人達がただスタスタと目の前を歩いて行くのを見ると急に友達を送って来たと云う一種異った淋しい様な気持が千世子の胸に満ちた。
電車の中では隣りの人の雑誌に心を引かれてすぐに家に行きついた。
入り口の石の上に見なれない下駄がそろえてあった、来た人が誰だか千世子には一寸想像がつかなかった、母親の居間で客の話し声が聞えた。
男にしては細い上っ皮
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