を多く感じると思うのは誤りである。
 笑いの影には悲しみが息づき歓楽の背後にすすり泣く悲しみがある。
 悲しみなしの喜びは世の中に必[#「必」に「(ママ)」の注記]してない。
 いかなる詩聖の言葉のかげにも又いかばかり偉大な音楽家の韻律のかげにもたとえ表面《うわべ》は舞い狂う――笑いさざめく華《はなや》かさがあってもその見えない影にひそむ尊い悲しみが人の心を動かすものであろう。
 悲しみと云っても只涙をこぼすばかりの悲しみではない。
 人は喜びの極点に達した時に或る一種の悲しみを感じる、その口に云えない悲しみが美の極点にも崇高なものの極点にもある悲しみである。
 その口に云い表わされない悲しみの心に宿った時、口に表わせない尊いすべての事がなされるのである。
 千世子は斯う思って必ず有ると信じる「尊い悲しみ」を愛して居た。
 自分の絶えず心に思って居る事を思いがけない時に話されたので千世子はそれをかなりの間覚えて居たのだった。
 けれ共自分の心から湧きあがった事でない限り一つ事をそういつまでも思いつづける事のない千世子なので久しい間とは云えじきに忘れて居た。
 千世子は常々《つねづね》、
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