きっから読みかけて居た形の小さな小奇麗な本をひざにのっけて居た千世子は、
[#ここから1字下げ]
 お読みんなりましたか。
[#ここで字下げ終わり]
と云ってその本の背の方を向けた。
 千世子は肇の話の工合で自分の読んで居る物位は肇も読んで居るに違いないとあてをつけて居たのでそんな思い切った事をした。
 肇は小さくうなずいた、そして驚いた様な口調で、
[#ここから1字下げ]
 沢山そんなものを読んでいらっしゃるんですか?
[#ここで字下げ終わり]
ときいた。
[#ここから1字下げ]
「ええ
 どうして」
「何故でもないんですが。
[#ここで字下げ終わり]
 肇は又じいっと考え込む様な様子をした。
[#ここから1字下げ]
「貴方だって私と同じ様に読んだり書いたりしていらっしゃる。
 そいだのに読んだものの話なんか何故一度もなすった事がないんでしょう。
 遠慮していらっしゃったんですか。
「そう云うわけじゃあありませんけど。
 貴方なんかがそう読んでなんかいらっしゃるまいと思って居たんです。
[#ここで字下げ終わり]
 咲いた花の様な顔つきをして肇はそれから急にいろいろの事を話した。
 千世子の知らない事も知って居た。
 一つ処を見つめて低い声で話されるのはいかにも快く千世子の耳に響いた。
 尊い悲しみと云う事について死ぬと云う事について顔のほてるのを自分で千世子が感じたほど話したのはこれまでには例のない事だった。
 物事に感じ易い涙もろい気持を持って居る肇の一事一事が又感じ易い千世子の頭の裡に一つ一つとのこって行った。
[#ここから1字下げ]
「今日までは何を話して好いのか見当《けんとう》がつかないで困っていたけれども」などと肇は云ったりした。
[#ここで字下げ終わり]
「死」と云う事に対して肇の持って居る考えが誰でも若い者の持って居るのと同じだと云う事や極く哲学じみた考えですべての事に対して居る事をその日になって始めて千世子は知った。
 何かを抱えて居るらしい人だと云う感じがその時に限ってふだんの倍も倍も強く千世子の頭に湧き上った。
 淋しい影の裡に喜びのこもって居るらしい、黒の裡に紅の模様のある、おぼろ月の夜の影坊子《かげぼうし》の様な人だと千世子は先から思って居たのだ。
 近づき難《にく》くて近づき易いと云う事が肇の大変徳な性質になって会う人毎に自分を高く保つ事が何の苦《く》もなく出来る事だった。
 自分が男だもんで着物の色彩からうける快《こころよ》さ又一種の喜びなんかと云うものは到底味わわれない。
 強いて目立つ色の着物でゾロットする事などは学者肌とも云う様な肇の出来る事ではない。
 色彩と云うものに対しての気持は一人前以上に強いのだ。
などと云うと千世子は短《みじ》っかく「ザンギリ」にした頭をまるむきに出して青っぽい袴と黒か白位の着物をノコッと着た肇を見てつくづく気の毒な様な気持がした。
 この頃の若い女の人は随分飛び飛びな種々な色を身につける。
 髪に新ダイヤが輝いて赤い「ツマミ細工」のものなんかも一緒に居る。
 それでも夏はそれほどひどくは気にならないけれど冬羽織着物、下着、半衿とあんまり違《ちが》う色を用《つか》うのは千世子は好《す》いて居なかった。
 紫紺の極く濃いのと茶っぽい色とを好《す》いて居る千世子が夏の外出に、白い帯[#「帯」に「(ママ)」の注記]に赤味がかった帯をすると気がさす様で仕様がなかった。
 沢山の色が自由になると云う事が好《い》い事で又悪い事だなどと云う事もあった。悲劇を産《うむ》とも云った。
 話の緒がフットした事でほぐれるといかにも自由に肇はいろんな事を千世子にはなした。
 予期して居た通りいつ来た時でも「あくび」が奥歯の隅でムズムズする様な事がなかった。
 自分の生い立ち等を話す時はあんまり神経的になりすぎた。
 けれ共一度寄せた大浪が引く様に高ぶった感情がしずまると渚にたわむれかかる小波《さざなみ》の様に静かに美くしく話す、その自分の言葉と心理《こころ》をどうにでも向けかえる事の出来るのを千世子は羨《うらや》みもし又恐ろしい事だとも思った。
 千世子の好《す》いて居る詩人をすき、絵風を好み、話をすく、肇は話がはずめば随分も長い間居た。
 けれ共|灯《ともし》のつくまでも千世子を相手にしゃべる事はあんまりしなかった。
 人の物を食《た》べる口つき手つきで千世子は人がきらいになる事がないでもない。
 漸く話のわかって来た友達を失うと云う事は嬉しい事ではないので結句《けっく》その方が流《なが》し元まで響き渡ってよかったのである。
          ――○――
 其の日は随分暑かった。
 明けられる「まど」は少し位無理をしたって開けっ放《ぱな》して客があったらすっかり裡《なか》が見える様に
前へ 次へ
全10ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング