て居なかった。
遠くからながめる夏の暮方の森林の様な心の色が何にでもおだやかな影を作って「我《が》」の勝《か》った張強《はりづよ》い千世子の心さいその影のかすかな影響をうける事さえあった。
自分の好《この》み、自分の思想、などと云うものはまだそうよく知り合わない千世子に明す事は一寸もないと云って好い位だった。
自分が進んで話を切り出し、自分が自分を明《あきら》かにする事よりも、人の云い出す話を静かに聞き、他人《ひと》を細々と観《み》るのがすきな人だとじきに知った千世子は始終自分のわきに眼が働いて居る様な気がして肇と相対して居るときには例え其の手|際《ぎわ》は良くなくってもあんまり見すかされないだけの用心をした。
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何と云う事なし、私は落ついた「まばたき」の少ない眼で見られるのは堪らなくいやなんです。
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肇に対して自分の知識を深遠なものにし、自分の思想と云うものを尊いものにして置きたい千世子はあんまり不用心に知って居るだけの事は話さない。
お互に或る無形の鏡を持って照し合わせ様として居るのを又お互に知って居た。
時々亢奮した目附で何か云い出そうとしてはフット口をつぐんで静かな無口になるのを千世子は興味ある気持でながめた。
肇のすきこのみなどを千世子は話すまで千世子は聞くまいと思ったし、千世子のすきこのみ、毎日仕て居る事、などは同様肇は何も知らなかった。
額《ひたえ》つき、眼つき、話しぶりで、大よその事は肇も知ったけれ共思って居る事の奥の深い処までその自分の想像をはたらかせない方が好いと思って居たのだ。
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人なんてものはあんまり知らない方が好いですねえ。
誰でも――お互に。
私《わたし》は自分から進んで人を知りすぎて大抵の時はうんざりする。
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千世子はこんな事を云う。
何だったかの折にジーット一つ処を見つめながら、
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尊い悲しみと、犯し難い沈黙は誰が持って居ても尊げなものだ。
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と云った肇の口調を千世子ははっきりとかなりの時間が経《へ》るまで覚えて居た。
多くの人は犯し難い沈黙を持つ事は喜びもし口にもする、けれ共尊い悲しみと云う物を思う人達の数は少ないものだろう。
心の正しい、直《すぐ》な人は喜びのみを多く感じると思うのは誤りである。
笑いの影には悲しみが息づき歓楽の背後にすすり泣く悲しみがある。
悲しみなしの喜びは世の中に必[#「必」に「(ママ)」の注記]してない。
いかなる詩聖の言葉のかげにも又いかばかり偉大な音楽家の韻律のかげにもたとえ表面《うわべ》は舞い狂う――笑いさざめく華《はなや》かさがあってもその見えない影にひそむ尊い悲しみが人の心を動かすものであろう。
悲しみと云っても只涙をこぼすばかりの悲しみではない。
人は喜びの極点に達した時に或る一種の悲しみを感じる、その口に云えない悲しみが美の極点にも崇高なものの極点にもある悲しみである。
その口に云い表わされない悲しみの心に宿った時、口に表わせない尊いすべての事がなされるのである。
千世子は斯う思って必ず有ると信じる「尊い悲しみ」を愛して居た。
自分の絶えず心に思って居る事を思いがけない時に話されたので千世子はそれをかなりの間覚えて居たのだった。
けれ共自分の心から湧きあがった事でない限り一つ事をそういつまでも思いつづける事のない千世子なので久しい間とは云えじきに忘れて居た。
千世子は常々《つねづね》、頭の友達と、形の友達を持ちたいと思って居た。
頭脳の機関《からくり》が手早く働いてねうちのあるものを産《う》み出せる友達を持ちたがった。
けれ共その望は到底みたされ様にもなかった。
少し頭の細やかな、頭の先立って育った人達は或る時期にある特別に涙っぽい気持を持って世の中のすべての事の一端をのぞいて全部だと思い込む人達であった。
心の隅に起った目に見えるか見えないの雨雲《あまぐも》を無理にもはてしなく押し拡《ひろ》げて、降りそそぐ雨にその心をうたせる事を何の考えもないうちにして自《みずか》らの呼び起した雨雲《あまぐも》の空が自然の空の全部と思いなして居る人達だ。
そうして千世子は頭の友達に満足は出来なかった。
自分は奇麗にしずとも美くしいものを見、美くしい裡《なか》に生きて居たい千世子が友達に花の様な人のあって欲《ほ》しいと思ったのはそう突飛な事でもなかった。
千世子が自分から進んで交際[#「交際」に「つき合」の注記]をしたいと思うほど美くしいに[#「いに」に「(ママ)」の注記]は会えなかった。
たった一度千世子はフットした処でわけもなくただスンナリと美くしい人に会った。
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