千世子(三)
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)誰《だ》あれも
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)(例)十五分|許《ばかり》してから
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(例)(一)[#「(一)」は縦中横]
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(一)[#「(一)」は縦中横]
千世子は大変疲れて居た。
水の様な色に暮れて行く春の黄昏の柔い空気の中にしっとりとひたって薄黄な蛾がハタハタと躰の囲りを円く舞うのや小さい樫の森に住む夫婦の「虫」が空をかすめて飛ぶのを見る事はいかにも快い身内の疲れを忘れさせて呉れる事だった。
あきる時を知らない様に千世子は自分の手足とチラッと見える鼻柱が大変白く見えるのを嬉しい様に思いながらテニスコートの黒土の上を歩きまわった。
町々のどよめきが波が寄せる様に響くのでまるで海に来て居る様な気持になって波に洗われる小石のすれ合う音や藻の香りを思い出し、足の下からザクザク砂を踏む音さえ聞えて来そうであった。
これから書こうと思って居るものの冒頭を考えたりしながら自分一人の世界の様に深い深い呼吸をゆったりとして澄んだ気持になった。
力強い自信と希望は今更の様に千世子の心の中いっぱいに満ち満ちて世の中のすべてのものが自分一人のために作られたと思う感情に疑をはさんだり非難したりなんかする事は出来なかった。
緑の色が黒く見えて尊げな星の群が輝き出した時しなければならない事をすました後の様な気持で室に戻った千世子は習慣的に机の前にさも大した事がありそうにぴったりと座った。
ゴンドラの形をした紙切りをはさんだ読みかけの本の頁をやたらにバラバラとめくったりして眠るまでの時間の費し方を考える様な様子なんかした。
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誰か来ればいいのに――
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門の外を通る足音に注意したりわざわざ女中を呼んで、
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誰か来るっていいやしなかったかえ。
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ときいたりなんかしたほど千世子には友達の来るのが待たれた。
かなり夜になっても誰《だ》あれも意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪い様に訪ねて来なかった。
我まんが仕切れなくなって、
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お前ほんとうに、お気の毒だけどねえ、
一寸行ってお京さんを呼んで来てお呉れな。
どうでも来ていただかなければならないんですからってね。
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と口上を教えて女中を一番近所に住んで居る京子の所へ迎にやった。
十五分|許《ばかり》してから京子が書斎に入って来た時千世子は待ちくたびれた様にぼんやりした顔をしてつるした額の絵の女を見て居た。
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今日は大変御機嫌が悪いんだってねえ、
どうしたの。
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笑いながら京子は千世子の顔を見るとすぐ云った。
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御機嫌が悪い?
歌を唱わなけりゃあ御機嫌が悪いんだと一人ぎめして居るんだものいやになっちゃう。
それに又彼の女にはその位の観察が関の山なんだものねえ。
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女中が少しすかして行った戸をいまいましそうに見ながら千世子は云った。そしてだまったまんま京子の桃割のぷくーんとした髷を見て居た千世子は急に嬉しそうに高く笑いながら京子の肩をつかんで言った。
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「いいえね、
ほんとうを云えばほんのちょっぴり御機嫌が悪かったの。
でもね今はすっかりなおった、
貴方が来て呉れたから。」
「貴方はお天気屋だもの、
そいで又我ままなんだもの、
あの女だって思いがけない処に気をつかって居るんですよきっと。
昨日《きのう》の朝よった時に私の顔を見るなり、
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「まあ、貴方様、いい処へお出下さいました事、御起ししなければならないんでございますけど少し工合が悪いと、
『私は朝が一番お前のきらいな時なんだよ』
なんておっしゃいますんですから。
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って云ってたもの、可哀そうに――
「それもそうね、
さきおとといの朝六時にお起しって云って置いたんできっちり六時が鳴ると私の処へ来て肩をゆすりながら、
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貴方様、お置き遊ばせ。
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て云うのがさっきから目を覚して居る私にははっきりわかったけれ共、狸をして居たら、鏡の前に行ってしきりに何かして居たっけが音のしない様に私が起上って居たのを見てまああの様子ったら、ぶきりょうの女があわてた様子ったらありゃあしない。
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こんならちもない事を云いながら千世子は男の様に不遠慮に笑った。
笑うために大きく開く口から「かんしゃく」やわだかまった気分が皆《みんな》、飛び出してしまう様に気が軽くなって頭がピョコピョコはずみ出しそうに思われた。
陽気な声で千世子はついこの間書き上げた極く短っかいそいで可哀らしいものを京子に読んできかせたり思い浮ぶ歌を歌の様な調子に唄ったりした。
だまって陽気な顔を見て居た京子はしみじみとした低い声で云った。
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「でも貴方なんか、思う通りの事をして苦労も心配もなしに暮して居るから少し位の不平は我まんしなけりゃあいけない。
此頃の私なんかほんとうにみじめこの上なしって云う様な様子なんだもの。
いくら画を書くのが商売だったってあけても暮れても植物の解剖図ばっかり描いて居るんじゃ何か張合も有りゃあしないんだもの。
こないだ描いて居た美人画は叔父が来て散々けなして行ったから洗ってしまったしするから――
好きで始めた仕事をしながら一寸でも、
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ああ、いやだ。
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と思うと淋しい様な気持がする」
「そりゃあ、誰だって他人のして居る仕事は易《やさ》しくって苦労がなくっていい様に羨しい様な気がするにきまってる。
でもまあ、自分の仕事に、不平があったり何かするからこそいいんで若しそうででもなかったらそれこそほんとうに可哀そうだ。
悟りきった様な調子に千世子がしずかに云うのを京子は押《おし》つける様に笑って、
そうでしょうさ!
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なんか云った。
千世子が気まぐれに時々水彩画を描く木炭紙を棚から下してそれを四つに切ったのに器用な手つきで炬燵につっぷして居る銀杏返しの女の淋しそうな姿を描いて壁に張りつけて眼ばたきを繁くしながらよっかかる様な声で云った。
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「冬中私の一番沢山する様子だ」
「貴方の冬の姿はそんなに淋しそうなの?
私が若し描くんなら燃えしきる焔の上に座って室《むろ》咲の花に取り巻かれて居るのを描く。
それだけ私と貴方はすべての事に違って居るんだ。
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千世子はこの一月ほど燃《た》かない「すとーぶ」のがらんとした口を見た。
そしてあんまりがらんとしていやだから土を敷いて草花でも植え様かと思って居ると云うと、
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「ええさぞ結構な事《こ》ってしょうよ。
ろくに日もあたらない闇の中にヒョロヒョロといじけて咲く花を見て貴方が『かんしゃく』を起して叱りつけてる様子が目に見える様だ。
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京子はこんな事を云ってからかう様に笑った。
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「ほんまになあ、
あほらしい事や。
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おどけた調子で真面目な顔をして千世子は云った。
それにつられた様に京子は西京へ行った時の話を丁寧に話した。
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「大阪って云うと京都より塵っぽい煤煙の多い処許り見たいだけど成園さんの描いたあの近所は随分好い、お酌もこっちのより奇麗だし同じ位『すれ』て居ても言葉が柔いからいやな気持がそんなにしない。
『すれ』を上手にごまかして居るのかもしれないけれどすきになれそうなのが少くなかった。
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こんな事も話した。
千世子はだまって壁を見ながら、彌左衛門町を歩いて居た時、お酌が大口あいて蜜豆を頬張って居るのを見た時の気持を思い出して居た。
京子はしきりに千世子の古い処々《ところどころ》本虫《しみ》の喰った本を出してはせわしそうにくって居るのを見て、
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「何にするの?
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千世子はだるい声で云った。
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「何ねー、
今して居る仕事の片が附いたら極く新らしい気持で昔の物語りの絵巻を作って見ようと思って。
気に入ったのが見つからないんだもの。
ほんとうに何がいいかしらん。
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京子はほんとうにたずねあぐんだ様に云った。
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「いいのが見つからなかったら自分で物語りを作ったらいいじゃあ、ありませんか、
何にも昔のでなけりゃあ、いけないって云うわけもないだろうのに。
自分で作ったものは気に入らなくってもあたる人がないから一番いい。
それにねえ、若し自分より前の人が自分より達者に同じ物を描いたのでも見るときっと破《やぶ》くか見えない所にしまうかしなければ安心が出来ない様な事が起こって来るもの。
「だって私にはそう都合よく行かないんだもの。
「仕て出来ない事ってありゃしない。
「そう云えばそれっきりだ。
二人はぽつりぽつりとこんな事を話した。
「あんなにしてわざわざ来てもらっても思いのほかだ」
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いつもの通りの不平が千世子の心に湧いて来た。
そう思うと京子が自分の傍に座って居るのが何とはなしに「やっかい」ものがある様に思えて来た。
わきの時計を見上げて千世子は横目に京子の方を見ながら、
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「ああああ、もう十時半になっちゃった。
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とつぶやく様に云った。
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「ほんとうにねえ。
もう帰ろう、あしたまた八時っから小石川へ行かなけりゃあならないんだもの。
今の仕事が片づくと当分は自由で居られる。
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京子は立ちあがって「おはしょり」をなおしながらこれから家に帰ってねるまでの事を話したりした。
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「どうしたって十二時だもの。
それで六時がなれば起きるんだから寝不足で黄色な顔をして居なけりゃあならないのは無理もない。
「それじゃあ日本人の先祖はよっぽど寝不足ばっかりしつづけたものと見える。
貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]ひまなしで――
[#ここで字下げ終わり]
こんな事を云って笑いながら千世子は京子にかす本を抱えながら送って行くつもりで一緒に門を出た。
外は星夜の深い闇がいっぱいに拡がってどっかで下手な浪花節をうなって居るのが聞えて来た。
千世子の草履の音と京子の日和のいきな響が入りまじっていかにも女が歩くらしい音をたて時々思い出した様に又ははじけた様に笑う声が桜の梢に消えて行った。
京子のつつましやかな門の前に来た時千世子はいかにもとっつけた様に、ポックリ頭を下げて、
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左様なら
今度、暇があったら又ね、
一人で帰るのがいやだ!
[#ここで字下げ終わり]
と云うとすぐ京子が何か云ったのを後にきいて大股にスッスッと歩いた。
少し行って後を振返った時京子がまだ立って居るのを見て前よりも一層速足に歩き出した。
広い屋敷町の道の両端にひそんで居る闇がどうっと押しよせて来る様に感じ三間ほどの長さに四尺ほどの高さにつまれて居る「じゃり」は瓦斯の光でひやっこく光って闇におぼれて死んだ人の塚の様に見えて居た。追われる様にして家に帰って机の前に座った時その上に葉書と手紙がのって居るのを見つけた。
叔母からよこした手紙にはこの次の日曜に御馳走をしてやるから来いと云うだけの用にいろいろのお飾りをつけてくどくどと巻紙半本も書いたかと思うほど長く書いてあった。
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