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よっぽどの時間と根気がなけりゃあ。
[#ここで字下げ終わり]
千世子は叔母のひらったい顔と小っぽけな額を思い出した。
そしていかにも感謝の念にあふれた様な返事を書いて心の中に朗読しながら何とはなしの可笑しさに笑って居た。
葉書は、友達からカナリーが雛を育てたからあげようと云ってよこした。
育てるのは若しかすると楽しみかもしれないけれど、病気になった時やそのほかの面倒くさい事を考えるともらう気もしなかった。
千世子は床に入ってからも中々ねつかれなかった。
子供の時から幾人も変った友達の事を思い出したりして自分一人はなれたものの様にも思った。
自分一人多くの人の群からはなれたと云うのも必[#「必」に「(ママ)」の注記]して不愉快なはなれ方ではなかった。
小さい時分からあくせくして友達を求め様としなかった千世子は今もあんまり沢山な友達を持っては居なかった。
頭の友達、
形の友達、
千世子は友達を斯う二つに分けて居る。
頭の友達――それは千世子の満足するだけの人は今だに得られないものであった。
形の友達でもそうだ。
御親友、とかりにも名づくべきものは一人も持って居なかった。
自分でも又そうである事を千世子は幸だと思って居た。笑いながら御親友になっても笑って別れる御親友はありゃあしない、と云う事を千世子は深く信じて居た。又そう云う経験も沢山持って居た。
親友のないために不都合な時より都合の好い場合の方が多かった。
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貴方の一番御親しくなすっていらっしゃるのは?
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よく人はこんな事をきく。
そのたんびに千世子はだまって笑いながら沢山の本に目を注いで居た。
近頃余計にそう云う気持になって居る千世子はその晩も京子の事を考えながらうす暗い燈の下でまたたく本の金色のかがやきやしずかにただよって居る紙の香りをしみじみと嗅いだ。
そうして自分でも喜んで居る大きな額が一層大きく――高くなった様に感じて居た。
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まあ、何にしても丈夫にならなけりゃあ。
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千世子は今月が去年も頭を悪くした月だと思って深い呼息を一度すると何も彼もほっぽり出した様な顔をして眼をふさいだ。
縁の下でいつの間にか鳴き出した虫がジージー、ひつっこく千世子が寝つくまで鳴きつづけた。
(二)[#「(二)」は縦中横]
神田まで用で行って帰って見ると思いがけなく篤が来て千世子の帰るのを待って居た。
紙包と傘を持って元気らしく笑って立って居る女中は、
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さきほどお出遊ばしたんでございます。
三時頃までに帰るとおっしゃってでございましたと申上たんでお待ちになっていらっしゃったんでございますよ。
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と云いながら書架のわきに本を見て居た篤に、
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只今お帰りになりました。
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と云って奥へそわそわと引っ込んで行った。
千世子は銘仙の着物に八二重の帯を低くしめたまんま書斎に行った。
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「どうもお待遠様。
いついらしったんです?
[#ここで字下げ終わり]
篤は本をふせて立ち上りながら丸い声で云った。
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「も一寸前なんです。
帰ろうかと思ったんですけどあの女《ひと》がもう直《すぐ》だって云ったんでこんな処に待ってたんです。
いそがしいんですか?
「ええ昨日《きのう》まではね。
でも今日はようござんすよ、
きまった事がないんだから。
今日は一人なんですか?
「いいえね、□□[#「□□」に「(二字分空白)」の注記]そこの例のうちへ来たんです。
ほら、あの先一度会ったじゃあありませんかあの中村って云う人ね、
あの人と来たんです。
でも他所《よそ》に用がまだ有るんだって京橋へ行きましたよ!
「へえ、わざわざ用を作ったんですよ、
そうにきまってますともね。
あの方はそう親しくない人なんかの家へ行きそうない様子ですもの、
引込思案らしい方ですものねえ。
「そりゃあ、そうかもしれませんよ、
あの人ではね!
それが又あの人の良い処なんだもの。
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篤はその人の顔を思い出そうとする様な目差しをしながら云った、そしてまるで気を変えた様に千世子の指のオパールを見ながら声の練習でもする様に気をつけて節まわしよくするすると話し出した。
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「此頃体の具合はどうなんです。
少し眼が窪んだ様ですねえ、
夏まけでもするんでしょうか。
「いいえね夏まけってんでもないんだけれ共四月から五月にかけてきっと頭の工合を悪くするんですよ。
もう四月の濃い空気が私にのしかかって来る様に重うく感じて来るともう少しずつ悪くなって行くんですから。
それでもね、じきなおるんですよ。
おととしだか神経衰弱をやったのが癖みたいになってねえ。
源氏物語りなら『御物の化』でもって――
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陽気な声で千世子は笑った、そして手をのばして篤が今まで読んで居た本の頁をわけもなくめくったりした。
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「ほんとうにねえ。
今年は今っから海岸にでも行ってたらどうです?
「今はまだ東京《こっち》に居とうござんすよ、
今頃の東京は一寸ようござんすからねえ。
ネルの着物を着る頃の銀座の通りが大好きですよ。
かなり長い間おぼえて居られる人を見られるしするから。
「私なんか一寸でもおぼえて居られる人に会った事なんて銀座を歩いたってありません。
男だからでしょうかねえ。
「そんなこってあるもんですか、
目|速《さと》くないからなんですよ。
いつまでもおぼえてた人の中でたった一人妙な事で私にわすられない人がありましたっけ。
何でもない人だったんだけれ共後れ毛をかきあげた小指の変な細さが目について忘られない人の仲間入りしたんですよ、
十七位の娘でしたけど。
そうして思い出す時には一番始めに前髪の処にあがった小指から頸から前髪から眼と云う順でしたよ、どんなはじっこにあるものでも一番先に目の行った場所から見えて来るもんですねえ。
そいで一寸も変な形容《かっこう》じゃないんです。
「私そんな事一度もあった事がありませんよ、
面白いもんですか?
そんな事を云う人はあんまりありませんねえ、
私達の知ってる人の中で。
「そうですか。
面白いなんて人によりますけどねえ、
いやなもんじゃあ、ありません。
いろんな想像が湧いて来ますもん、
それにねえ、私はすきな事の一つです。
「貴方って人はほんとうにいろんな楽しみを持って居る人だ!
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篤は千世子の濃い青味がかった白眼や髪の間から一寸のぞいて居る耳朶を見ながら誘われる様な気持にうす笑いをした。
笑いながら濃い長い髪が額へ落ちかかって来るのを平手で撫で上げ撫で上げしながら窓の外にしげる楓の若葉越しにせわしく動いて居る隣りの家の女中の黒い影坊師を見て居た。
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何です?
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千世子は其の方を見ながらきいた。
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「影っ坊師を見て居るんですよ隣りの女中の。
影っ坊師って何だか妙に思わせ振りなもんですねえ。
「女中の?
私はねよくそう思いますよ、
女中ってものは私達と同じ女でありながらまるで特別なものとして神から授かった頭を持ってるってね、面白い研究ですよ、その心理をしらべるのは。
女の見た女中と云うものはほんとうに妙なものに写ります。
きっと男の人なんかにはわかりますまいよ」
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篤は窓から目をはなして考え深い様に一つ処を見て居る千世子の顔を見た。
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「そうですかねえ。
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篤は云った。
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「私なんか女中に接する場合が少ないせいかそんなに知りません。
それに又知ろうとした事もありませんからねえ」
「生理的にも精神的にも違います。
特別な点に気がついてねえ、
奉公人根性をどうしたって無くさせる事は出来ませんよ、
長く奉公をすればするほど気持の悪くなる御追従と謙遜と憎らしい図々しさばかり大抵はふえるもんです。
平気で自分の躰をさいなんで笑う様になりますよ、恐ろしい様にねえ。
「いやなもんだ。
でもそう云う事のあるのは何とない痛ましい事ですねえ。
頭もなく形もととのわず才もない様に育った女が自立しようとすれば一番雑作ないのは女中ですからねえ、やっぱり」
「そうなんですよ。
例えば何か悪い事をしましょう、
頭の足りないせいだと思って同情してそうぎすぎすも云わずに置けばすぐ図にのって来ます、
あたり前だって云う様な顔をしてね」
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千世子は一寸話を止めた。
そしてかなりの間口を開かなかった。
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「どうしたんです?
気分が悪いんですか。
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篤は千世子の顔をのぞき込みながらきいた。
小さい子供のする様に千世子は首を横に振った。
しばらくしてから静かに落ついた声で云った。
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「何でもないんです。
けれどもね、今まで、あんまり下らない話をして居たのに気がついてね、
何だか馬鹿らしくなった」
「してしまった話をどうする事も出来ないじゃあありませんか」
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篤は大きな声で話しながら笑った。
千世子にはほんとうの真面目な言葉としてそれが響いた。
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「ほんとうですねえ。
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そう云いながらも千世子は考える様な目つきをして居た。
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「ほんとうにそうだ!」
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つぶやく様に云った千世子の心の底に重いものが産れて来た。
よろける様にして行ってピアノのふたをあけた。
そしてたったままシューベルトの子守唄を弾いた。
しとやかにゆるい諧調は千世子の心をふんわりと抱えて揺籃の裡に居る様な気持にした。
篤はしずかに歌をつけた。
低いゆーらりゆーらりとした歌に千世子は涙をさそわれる様な心に柔さが出て来た。
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ほんとうに好い曲ですね。
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千世子は幾度も幾度も、繰返し繰返して「ふた」をしながら後に居る篤に云った。
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ああ、貴方に不思議な気持のする音をきかせてあげましょう。
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した蓋をわざわざ開けて千世子は篤の方を見ながらCD[#「D」に「(ママ)」の注記]の音を一度に出した。
完全四度の音程のその音は三角派の絵の様に奇怪なそしてどっかに心安い安らかな思いのこもった響でその余韻には鋭い皮肉がふくまれていかにも官能的な音であった。
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「ねえ、ワイルドの作品の様な――
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音をききすます様な目をして千世子は云った。
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「幾分かはそう思いますけど――
それほどに感じませんよ。
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千世子は篤の答にがっかりした様に首を振って静かに蓋を閉じた。
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「貴方、割合に鈍いんですねえ、
いけないじゃありませんか、そんなじゃあ。
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わざとらしい笑い様をして千世子はとっぴょうしもないそっぽうを見て居た。
千世子は腰掛様ともしないで部屋のあっちこっちと歩きまわった。
茶っぽい帯の傍からうす色の帯上げが少しのぞいて白い足袋に蹴り上げられる絹の裾が陰の多い襞を作るのを篤は静かに見て居た。
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貴方随分|暢気《のんき》らしい方だ。
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千世子は向うの隅から両手を組合わせてズーッと下にのばしてこっちに歩きながら云った。
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