ないで居る千世子には、絶えずはかどって行く絵筆の運びと心も身もその筆の先にこめて居る京子の様子を見るのがたった一つの慰めであった。
京子は着物の色も模様もなるたけ千世子の心にかなった様にして居た。
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ねえ、これは貴方の御伽にと思って書くんだから、貴方のおこのみ通りにねえ。
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こんな事を云われるのが嬉しいほど人なつっこい気持になって居た千世子はたびたびいかにもすなおな娘らしい調子で母親の処へ手紙を書いた。
叱かられる京子の眼をぬすんで書くと云う事が一つの興味ある事でもあった。
床についてから七日目の日は朝からまるで夏が来た様にあつかった。
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「まあほんとうにあつい、
こんな『かいまき』をかけてちゃあゆだっちゃう。
『女中』にそう云って赤いうすい『かいまき』を出させて下さいな。
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千世子はこんな事を云いながら髪をとかしなおしたり爪の掃除をしたりした。
そしてしばらくの間京子に髪をおもちゃにさせて居た。
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まあ貴方の髪は何てかるいんだろう、
ほんとうにフワフワしてる、
どうして斯うなんだろうかしら。
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京子が云うのに返事もしないで目を細くして千世子は髪と髪の間に五本の指を入れてかきまわされる何とも云えない好い気味をしみじみと味わって居た。
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「ねえ貴方、女で髪をこんな事されていい気持だなんて云う人はありませんよ、
大抵さわられたっていやだって云うのに――
私にした所でいい気持どころじゃあない却って頭痛がしてしまう。
年のわりに思いきった事がすきなんですねえ、
四十位の女の様だ!
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京子は生毛のまだ生えて居る千世子の頸を見ながら云った。
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「四十位?
そんな事ってあるもんですか、
私達にわかるもんですかそんな事云ったって。
十五六から二十になるまで心の中に新らしいものが生れると同じ様に四十位の女《ひと》の心には又新らしい或るものが産れて居るんですよ、
私達には到底分らないものがねえ。
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千世子は午後になってから自分でも変だと思うっ位気分がよくなった。
その日まで着て居た着物をぬいでしっとりと折目のついたのに着かえた。
細っこい胴に巻きつく伊達巻のサヤサヤと云う気軽な音をききながら、
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木の深い森へ行きとうござんすねえ。
すぐそこの――ほら、
先に行きましたっけねえ、
あすこへ行きましょうよ、
どんなにいいでしょうねえ。
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千世子はそんな事を云いながらわきに絵筆をかんで居た京子をつっついた。
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「あしたっからまた一週間寝たけりゃあ行きましょうさ。
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とりすましたどこまでも千世子の保護者だと云う様な調子に云った。
千世子はそれなりだまった。
床の上に座って白い鳩の舞うのを見て居た千世子は小声に思い出す歌をつづけざまにうたった。
そして晴ればれした安心した気持になった。
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「ねえお京さん私もうすっかり治ったらしゅうござんすよ。
そりゃあ頭が軽くていい気持だ。
「貴方なんか治ったと思ったら一分とたたないうちに治っちまいましょうよ、
自分で病気を作るんだもの。
起きて居たいんでしょう。
「でも少し頭がフラフラする。
「そんならまだ良くないんじゃありませんか、
何が何だか一寸もわけがわかりゃあしない。
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二人は大きな声で笑った。
そして京子は千世子のくぼんだまぶたを見ながら、
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少し目が有るらしくなりましたねえ。
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なんかと云った。
夕飯がすむとすぐ肇が来た。
千世子は自分の居る部屋へ通した。
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「いかがでいらっしゃるんです?
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顔を見るとすぐ肇はきいた。
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「有難う、今日はこの通りなんです。
度々来て下すったんですか?
「いいえ、そんなに度々でもありませんけど、
二三度上りました。
篤さんと一緒に――
「女中がおことわりしたんでしょう?
そんな事私が云い出したんじゃあないんですけどね、ここに居る人が云いつけたんですよ。
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千世子は京子を見返りながら笑った。
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「貴方にさわると思ってですよ。
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京子は不平らしく云いながらも一緒に笑った。
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「でもねお陰でもうすっかりいい様になったんです。
頭もそう気になるほどでもなくってねえ。
今日は午後っからずーっと起きてるんです、
いいお天気でしたからねえほんとうに――
「ようござんしたねえ、
早く御なおりなすって。
篤さんも随分心配してましたよ、
あの人は去年貴方が悪くていらした時もしってるってそう云ってました。
あの書斎のひろい椅子に腰かけて青い顔をして居るのを見るのはほんとうに変なほど気味が悪いって。
やっぱり眼の上が落ちました、
そいで眼が大きく見える。
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千世子はさっきの京子の言葉を思い出して笑いながら小さい鏡を立って持って来た。
その小さい中にうつる自分の顔を見ながら、
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「まあ、ほんとですねえ。
少し気違いじみた色をして、
随分青いんですねえ私の顔は、
それにふだんだってそんなに赤ら顔じゃあありませんからよけいなんですよ。
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肇はだまって千世子の顔を見つめた居た。
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「ああ貴方も見つめる癖を持ってらっしゃる、
私もそう云うくせが有るんですよ。
「そうですか、
自分じゃあ気がつきませんがねえ。
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もう初めて会った日から一月目の今日までに五六度会った肇はよっぽど話をする様になった。
話す時にも長い「まつ毛」を見開いて一つ所を見つめて居るのが癖だった。
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「どうしてあの人はあんな亢奮した様な声をいつでも出すんだろう」
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とさえ千世子は思った事があった。
今夜はなお余計そんな様子が見えた。
千世子は沈んだ様な声で話した。
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「貴方は重い顔色をしていらっしゃる、
頭でもどうかしてるんですか。
「いいえ、そうじゃあありません。
けれ共、頭にこびりついてはなれない事が有ってこまって居るんです、
見込まれた様に――
「私に云えないんですか。
「別に云えないなんて事はありません。
ほんとうに下らない事なんだけれ共私は考えさせられて居るんです。
「云ったっていいんならお話しなさいな。
「ええ――
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肇はだまって庭の方ばかりを見て居た。
その思いあまった様な目つきやしまった頬を見ると千世子には肇が何を思ってるかが大抵見当がついた。
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「ねえ笹原さん?
私が云って見ましょうか。
家庭《うち》の事なんでしょう、
それで考えていらっしゃるんでしょう、
きっとそうですよ。
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千世子はいかにも確信があると云う様に云った。
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「ええ、そうなんです。
どうしてわかったんです?
私はまだ一言だっていいやしません。
「だって私には分ります。
大抵の人のなやむ事ってすからねえ、一時は――
私だってそうでしたもの、
久しい間ね私はいろんな下らない事に迷って居たんです。
自分で恐ろしかった位ねえ。
「女の人ででもですか?
「そんな事は貴方《あな》た男だから女だからのって事はありゃあしません。
「そんなもんですかねえ。
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肇はほんとうに沈みきった目附をした。
そして小机が一つ置かれて居る陰の多い部屋とうす赤い盛花の色を見て居た。
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「おっしゃいな? いやなんですか?
「いいえ、でも何と云い出したらいいんだかわからないんでねえこまってるんです――が、
私が一番辛い事に思ってる事は両親になつかれないって云う事なんです。
年を取った親達はもうやたらに私をたよりにして居るのを見れば見るほど離れた気持になって来るんです。
どんなにつとめて思いなおしても。
「両親からはなれた気持になる?
小さい時に私も一時そんな事があったんですよ。
どうしていやなのか?
って聞かれればわけははっきり云えませんけどねえ、明けても暮れてもいやに陰気くさい子で居ましたっけ。
でも私はほんとうになおるもんだと思いますよ、
今なんか私はそりゃあ打ちまけて母親にすべてを云える気持で居ますもの。
両親にはなれた心を持って居るものの不幸な事なんかもこの頃は思ってます。
「どうなったってなおりゃあようござんすねえ。
でも私はなおりそうにもありませんよほんとうに、国に帰るのがだからいやなんです。
下の弟達が両親になついて居るのを見ると羨しさと憎しみが一度きに湧いて来るんです。
なつかない私を見れば両親だって頼りない様な眼附をしますしねえ、
女の母親なんかは私に気づかいさえして居るらしいんですもの。
「貴方が苦しいより以上にお母さんなんて辛い悲しい思いをしていらっしゃるに違いありませんよ。
この頃になって私はつくづく思うんです、
親の子供に対しての感情と云うものがどれだけ濃やかでどれだけ注意深い親切だかって事をねえ。
それで貴方子供はちっとも親になつかない、
まるで自分達にはなれた事だと思って考えて見たってハムレット以上の悲劇なんです、
私達が書き表しにくいほど複雑した心理状態と悲しさがこもってますものねえ。
だれでもがよくこの頃は親達を裏切った気持だって事を云います、
思想の違って居る事やなんかで少し位の事はあるかもしれないけど裏切るほどの気持にだれでもがなるもんでしょうか。
私は或る一つの悲しいいたましい『流行病《はやりやまい》』だって云うんですよほんとうに。
「じゃあ私もその『病』にかかったんだっておっしゃるんですか?
「そんな事どうだか私はわかるこっちゃあないじゃあありません。
私はねえ、貴方にまるで同情がないんじゃあないんですよ。
でも私は貴方にどうおつとめなさいとか斯うして御覧なさいとかっては云われませんからねえ。
第一貴方の御両親がどんな方だかだって知らないんですもの。
「じゃあやっぱり私は今まで通りの気持で居なけりゃあならないんですかねえ。
ほんとうは私の両親の考えやなんかがそんなにわかって居ないんですよ私に――
「そんなら貴方、今度お帰んなすった時に丁寧に親切にそして器用にお両親の頭をのぞいて御覧なさるといい、
きっと何かの結果のある仕事ですよ、
私は貴方が少しずつでもお両親に近づける様になるにきまってると思います。
ろくに二親の考えもしらないで居て近づけないのなんのかんのってったってまるで食べずぎらいみたいじゃあありませんかほんとうに。
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二人は何ともつかない笑声をたてた。
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「でも若し頭の中に恐ろしいものが居るのを見つけたらどうでしょう。
そうしたらほんとにまあ私はどうだろう。
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肇はいかにも先を見すかして目の前に恐ろしいものでも見た様な声で云った。
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「それがやっぱり分って居ないからなんですよ、
実の生みの親で気の狂った人ででもなければどっから見てもどっからのぞいても恐ろしいものなんかの有ろう筈は有りません。
そりゃあたしかですとも、
若し恐ろしいとか何とか思うのは只自分の感情が間違って感じたと云うんですよ、
はっきりしたたしかな心と眼で
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