た。
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 え?
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 肇はふっと思いあたった様にうす赤い顔をした、そして下を向いてくすぐったい様な顔をした。
 その小供っぽい様子を見て千世子はおっかぶさる様に思い上った気持で笑った。
 それからは多く肇の方を見て、千世子は話した。
 絵の話も音楽の話もした。
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 貴方日本の楽器の中で何が一番気に入っていらっしゃるんです?
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 肇は一寸考える様子をして、
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「そうですね、
 はっきりはわかりませんけど、琴は自分で弾きます。
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 こんな事を云って篤と顔を見合わせて微笑んだ。
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「御自分で?
 御師匠さん処へ行らっしゃるんですか?
「いいえ姉から習うんです。
 いつでも千鳥の曲はいいと思ってます。
「随分精しいんですねえ。
 私琴は弾けないんですよ、
 ただ三味線はすきですきくだけですけど、
 尺八のいい悪いなんかはわかるほど年を取って居ませんしねえ。
「いつでもね肇君の姉さんがそう云ってるんですよ。
 お前なんかどうせろくなものにはなれないんだから琴の御師匠さんになる方がいいよってね。
 そんな風をして琴の師匠なんかすると何かだと思われるだろうって笑うんですよ。
「若しなさったら私にした所が、
『ちっと変だな』位には思いますねえ。
 一体男の人で目の開いて居る按摩と琴の御師匠ほどいや味たっぷりな虫ずの走るものはありませんよ、ほんとうに。
 でもね、私達が小石川に居た所のそばにもう六十位の眼明きの御琴の御師匠さんが居ましてね、
 かなり人望があって沢山の御弟子が居るんで『おさらい』だなんて云うと随分はでにしてました。
 それがね何でも夏の中頃だと思ってましたけど一晩の中に貸家の札がおきまりにはすにはってあったんで大変な噂になりましたっけが酒屋の小僧がねこんな事を云ってましたよ。
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「あの『じじい』はあの年をつかまつって居て銘酒屋の女房と馳け落したんですよ。
 勿論女房も子供もない一人ものでしたがね。
 相手の女はいくつだと思います、
 五十六なんですよ」ってね。」
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 私は老ぼれた馳け落ちものが茶化した様にゲタゲタとてりつける日光をあびて汗をだくだくながしてほこりまびれになって居る様子を思って皮肉な芝居を見せられた様な気持がしましたよ。
 誰も笑わなかった。
 やがて肇は重々しい目つきをして云った。
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「ポーかゴールキーが書いたらどんなだったでしょう。
「ええほんとにねえ。
 若し私達がそれをモデルにした処がいかにも下司な馬鹿馬鹿しい滑稽ほか出されませんからねえ。
 そんな事を書くには年も若すぎるし第一あんまり幸福すぎますもの。」
 千世子はいかにも研究的な様子をして云った。
「ほんとに私共は苦労しらずですものねえ。
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 千世子は間もなく嬉しい様な声で云った。
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「でも貴方なんか生活の苦労を知ったり下らない苦痛をたえなければならない様で育って来たらきっとごく疑い深いいやな人になったでしょうねえ。
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 篤はくるくると思い切って肥えた千世子の胸のあたりのゆるやかなふくらみを見ながら云う。
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「ほんとうにうまく行って居るもんですよ。
 母はもうそりゃああ冷たいいやな中に育ったんですけど平らかな人の心持をそこねない頭を持ってるんです。
 もとより私とはまるで反対に理智的な澄んだ頭を持って生れたんですけどねえ。
「貴方!」
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 肇は始めて千世子を呼びかけた、そしてしずかなはにかみはにかみ子供の話する様にぽつんぽつんと、
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「私はそれじゃあ例外ですよ。
 両親も可哀がって呉れたし、貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]ながらそんなにあくせくしないで居られる家庭に育ったんですけど、こんなかげの多い人間が出来上ったんです。
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と云ってかすかに笑った。
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「そいじゃあ、貴方が自分でそうしたんじゃあありませんか。
 体が弱くてらっしゃったんでしょう。」
「ええ、学齢頃までは医者にかかりづめでしたよ。
「だからですよ。
 きっとそうですよ、
 子供のうち弱かった子はそのまんま育っても、あんまり快活にはならない様ですもんねえ。
 でもまあよく今までに御なりんなったんですねえ。
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 千世子は年下のものに云う様な口調で云って笑った。三人はそんなに打ちとけた話も何故かしなかった。
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「ねえ笹原さん、
 私達が今日は
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