かかって来る様に重うく感じて来るともう少しずつ悪くなって行くんですから。
 それでもね、じきなおるんですよ。
 おととしだか神経衰弱をやったのが癖みたいになってねえ。
 源氏物語りなら『御物の化』でもって――
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 陽気な声で千世子は笑った、そして手をのばして篤が今まで読んで居た本の頁をわけもなくめくったりした。
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「ほんとうにねえ。
 今年は今っから海岸にでも行ってたらどうです?
「今はまだ東京《こっち》に居とうござんすよ、
 今頃の東京は一寸ようござんすからねえ。
 ネルの着物を着る頃の銀座の通りが大好きですよ。
 かなり長い間おぼえて居られる人を見られるしするから。
「私なんか一寸でもおぼえて居られる人に会った事なんて銀座を歩いたってありません。
 男だからでしょうかねえ。
「そんなこってあるもんですか、
 目|速《さと》くないからなんですよ。
 いつまでもおぼえてた人の中でたった一人妙な事で私にわすられない人がありましたっけ。
 何でもない人だったんだけれ共後れ毛をかきあげた小指の変な細さが目について忘られない人の仲間入りしたんですよ、
 十七位の娘でしたけど。
 そうして思い出す時には一番始めに前髪の処にあがった小指から頸から前髪から眼と云う順でしたよ、どんなはじっこにあるものでも一番先に目の行った場所から見えて来るもんですねえ。
 そいで一寸も変な形容《かっこう》じゃないんです。
「私そんな事一度もあった事がありませんよ、
 面白いもんですか?
 そんな事を云う人はあんまりありませんねえ、
 私達の知ってる人の中で。
「そうですか。
 面白いなんて人によりますけどねえ、
 いやなもんじゃあ、ありません。
 いろんな想像が湧いて来ますもん、
 それにねえ、私はすきな事の一つです。
「貴方って人はほんとうにいろんな楽しみを持って居る人だ!
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 篤は千世子の濃い青味がかった白眼や髪の間から一寸のぞいて居る耳朶を見ながら誘われる様な気持にうす笑いをした。
 笑いながら濃い長い髪が額へ落ちかかって来るのを平手で撫で上げ撫で上げしながら窓の外にしげる楓の若葉越しにせわしく動いて居る隣りの家の女中の黒い影坊師を見て居た。
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 何です?
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 千世子は其の方を
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