おなじ廊下で一つ手前の台所へ帰る。
籠をぶらぶら振りながら
わたしは窓にかけている。
女中になるということは
云ったげようか
とても、陽気《ウェルショールイ》だ。
陽気《ウェルショールイ》だということに反語のこころをふくめてナースチャは、心のうちでいくつもかえ歌をこしらえ、調子をとりつつ、それが火曜日の朝ならばごしごしと洗濯|盥《だらい》でアンナ・リヴォーヴナの下着をもむのであった。
パーヴェル・パヴロヴィッチが出て行く。リザ・セミョンノヴナが赤い手提に身許証明書と八カペイキのパンとを入れて出て行く。アンナ・リヴォーヴナがそのあとで独り食堂で、桃色の夜帽子をかぶったまま茶を飲む。ナースチャは寝室と、リザ・セミョンノヴナの室《へや》掃除をする。ナースチャはリザ・セミョンノヴナがそのうえで白粉もつけるし、手紙も書くたった一脚の、いつも一晩で散らかるテーブルの上を、彼女独特の原則にしたがって片づけた。ソフィヤ村で、ナースチャはいつこのような白粉箱、香水箱、新聞、古手紙、毛糸の黒坊人形まである小机を見たことがあろう。ナースチャはしかたがないから、あるほどのものを片ぱしから大きさの順で机の端につみ重ねた。したがって、新聞が基礎構造で、「週間《ディー・ヴォッヘ》」「アガニョーク」「エルマー・ガントリー」という英語の筋ばかり厚い小説、日記、字引、五月八日にキエフから来た手紙、もう一つ小さい端のめくれた古手帳、その上に、ナースチャはきまって黄色い円い白粉箱をおき、黒坊人形は手にとって一つ接吻して、その白粉箱によせかけ、片づけ終るのであった。リザ・セミョンノヴナは帰って来て――夕方か夜更けかに――興業銀行で百八ルーブリの月給をもらう代り、怠ることの出来ない英語勉強のために、音読用エルマー・ガントリーをとろうとすると、それがまた彼女の金髪らしい性質で、いつの間にか机一杯に白粉箱や古手紙が散らばってしまうのであった。
カウカーズの上靴を寝台の下にしまって、ナースチャがリザ・セミョンノヴナの室に鍵をかけ終ると、アンナ・リヴォーヴナは廊下で黒麦わらの帽子をかぶっている。
「さあ、籠を持って」
「ただいま《シチャース》」
「牛乳|壜《びん》を入れたかい?」
「ええ」
戸に鍵をかけ、はしごを中途まで降りかけると、アンナ・リヴォーヴナは、
「ホラ、また忘れちゃった!」
と立ち止った。
「ナースチャ、忘れたろう?」
「なんです」
「ケフィールの瓶《びん》さ」
幸いナースチャが平然と腕に下げている籠からビール瓶くらいのケフィールの空瓶を出して見せられる時はよいが、さもないと、ナースチャはまたはしごをのぼって、鍵をあけて、台所へ行って瓶をとって、また表の戸を閉めて、念のためいっぺん引っぱって見て、アンナ・リヴォーヴナの待っているところまで戻らねばならぬ。悪い時は、どうかしてアンナ・リヴォーヴナが扉のしめようを信用せず、
「いい娘だから、もう一度しっかり見ておいで。モスクワはソフィヤ村じゃないんだからね、三分間扉を開けっ放しにしておいてごらん、壁のペイチカまでさらわれちまうから」
と云う場合であった。ナースチャは戻らねばならぬ。三階まで二度往復せねばならぬことを意味するのであった。
市場《ルイノク》には、村の市場より数倍の店と群集と、いろんな匂いとがある。市場のモスクワ式ごろた石の通路では、花キャベジの葉っぱ、タバコの吸殻、わら屑、新聞の切れっ端が踏みにじられていた。魚売店からきたなく臭い水がごろた石の間を流れた。市場の古いごろた石道はきつい日に照らされて表面だけ白っぽくかわいて見えても、石と石との隙間の奥にはいつも黒いぐしゃぐしゃした泥濘がある。ナースチャは時々、そのごろた石と石との隙間に靴の踵をかまれてよろけながら、眼をつき出し、愉快そうにアンナ・リヴォーヴナのあとから店々をのぞいて歩くのであった。
頭上の大板へ葡萄《ぶどう》と林檎《りんご》を盛った男が、長靴を鳴らし人をかきわけてやって来た。女がその肩にぶつかった。
「ヘーイ、ヘイ! ばかやろう《ドゥーラ》!」
いそいでよけた女の顔の前へ、てのひらにのせた鶏をつき出して、横歩きをしつつ髯の大きな男が熱心につばきをとばしてしゃべった。
「|奥さん《マーモチカ》、じゃいくらならいいんだね。見なさい。こりゃ本当のヒナですぜ、けさつぶした」
赤い羽根付の帽子をかぶった女は止らず歩きつづけた。
「だから、もう云ったよ。八十五カペイキ!」
「もう十カペイキだけ! あんたにとってこれっぽっち同じじゃないか」
「同じなら、お前さん負けとき」
「わたしのを買って下さいよ、ね奥さん」
更紗のプラトークをかぶった女が、その時やっぱり手に毛をにぎったひどくひねた鶏をのせ、人かげから、歩いてゆく女の前に現れた。
「ねえ、奥さん、本当の主婦《ハジャイカ》ならこれを見落しゃしませんよ、たった九十五カペイキ、お買いなさい奥さん」
二人の鶏売りにはさまれ、女は怒ったように、
「駄目! 駄目!」
と叫んで一そう早く歩き出した。
「わたしは買わないよ、いらないっていったら!」
行手にはもう別の人だかりがあり、鮭の切売りを見物しているのであった。
「ナースチャ!」
肉売り店の前に立って少し口をあけ、面白そうにその様子を見ていたナースチャは、びっくりしてうしろを向いた。
「さ、これ」
アンナ・リヴォーヴナは犢《こうし》の骨付肉を新聞でつまんでナースチャの籠へ入れた。
「駄目だよ。さらわれちゃ」
女が二人ならんで足許の箱に玉子をひろげていた。ナースチャが来かかった時、年よりの方の女が、急にあわてて箱をもち上げ、
「来たよ」
とささやいた。あわててもう一人の女も箱を持ち上げ逃げるかまえをしたが、そちらを見て、
「籠をもってる」
安心して、再び玉子の箱を元のように足許に下した。直ぐ巡査が現れた。巡査も買物で、ほかの群集の男女と同じに籠をぶら下げ、玉子売の隣で胡瓜《きゅうり》漬売の前にたたずんだ。ナースチャは顔を上に向けて笑った。市場は、陽気だ。
リザ・セミョンノヴナも陽気でなくはなかった。
リザ・セミョンノヴナは時々は夜も、台所へ入って来ることがある。
「ナースチャ、ちょっとじりじりやらせてね」
爪磨《マニキュール》した彼女の手にアルミニュームの小鍋がある。小鍋に二つの卵とハムが入っている。アンナ・リヴォーヴナとリザ・セミョンノヴナがとり交した契約書には、モスクワの借室がたいていそうであるように台所は利用せぬことになっているのであった。セミョンノヴナでも、しかし時には、夜、茶と一しょに熱いものが食べたかろうではないか。
台所の隅の腰かけに、昼間のせてあった金盥の代りに、いまはナースチャ自身がかけている。ハムをあぶりながら、リザ・セミョンノヴナは綺麗な水色の瞳で、じろじろナースチャを眺めて、云うのであった。
「ナースチャ、なぜおかっぱにしないの」
「わたし似合わないんです」
リザ・セミョンノヴナの小料理は手伝うこともないので、かえってナースチャは間がわるい表情だ。
「きったことがあるの?」
「いいえ、伯母さんも似合わないというし、シューラも似合わないって云うもんだから」
「ばかなナースチャ、おかっぱにしないのなんか禿げ頭の爺さんか豚だけよ――ごらん、わたしだってよく似合ってるじゃないの」
ナースチャは、感嘆して、紫苑色のリザ・セミョンノヴナのすらりとしたスウェーター姿を眺めた。
「わたしだってあなたみたいな髪さえあれば……こんな黒い髪! あきあきしちゃう」
「ホウ、ホウ、ホウ」
肩をすぼめ、唇を丸め、ホークで器用に小鍋をひっかけながら、
「そら出来た」
リザ・セミョンノヴナはガスを消す。
「寝る? ナースチャ」
ナースチャはもっといろいろのことをしゃべりたい。その心持をあらわす暇のないうちに、
「じゃおやすみ、ありがとうよ、ナースチャ」
リザ・セミョンノヴナは裾の端を台所の戸がしめこみそうにひらり、小鍋を持って自分の室に行ってしまうのであった。
ナースチャがお休みなさいと云う間もなかった。
彼女は台所の隅の四本柱の腰かけの上で、両手を膝の間にはさみ、体を前や後に振りながら周囲の物音をききすます。廊下のあちらでリザ・セミョンノヴナの戸が閉った。食堂からこもった笑声が響いた。食堂の入口に厚いカーテンが下っているからあんなに遠く聞えるのだ。アンナ・リヴォーヴナ夫婦と夫婦づれの客が、カルタをやっていた。ナースチャがずっとさっきコーヒーを持って行ったら、アンナ・リヴォーヴナはカルタを手のなかで一心にそろえながら、
「お砂糖もいるよ」
と云った。主人のパーヴェル・パヴロヴィッチがその前に台所へ顔を出して、
「ナースチャ、コーヒーおくれ、苦くしちゃいかんぜ」
と云って直ぐ引っこんだ。夜の間にナースチャにかけられた言葉のそれが全部である。
膝の間にはさんでいた片方の手をのばして、ナースチャはかたわらの棚の下をさぐった。いろんな紙屑のなかから、手当り次第に引っぱり出してみると、パーヴェル・パヴロヴィッチが役所から持って来た製図の切れ端であった。もう一遍やって見ると、新聞が出た。ナースチャは太い活字をひろって読んだ。パホード・プロチフ・エストラノドノイ・ハルツールイ……これはなんのことだろう。別のところには細かい字がうんと書いてあってカリーニンとかルジュタクとか人の名がある。
再び両手を膝にはさみ、体をゆすり、ナースチャはシューラを恋しく思い出すのであった。寂しい……。明るい……明るい……そして一人ぼっちの台所は寂しい。夜はいつしか進んでナースチャはねむたくなる。大きなあくびをして立ち上り、彼女はギーと板を下し、その上にのって高い棚から掛物をひきずりおろした。
便所で誰かが灯をつける度に、高窓のガラスを越してナースチャの寝顔に光がさした。ナースチャは口をあけ、うなりながら眠った。
八
細い肱を蟹のように張って、ナースチャは火のしをかけた。二人寝台用の大敷布はたたむにも、伸すにもナースチャ一人の手にあまった。アンナ・リヴォーヴナが新聞の上へ出して行った木炭は少しだから、火の気の強いうちに、急いでかけてしまわねばならぬ。力がいるのと木炭のガスとでナースチャの顔はほてり、頭痛がした。しかしナースチャは、肱を蟹のように曲げ一生懸命火のしをかける。
ジジーン!
呼鈴がクワルチーラじゅうに響いた。火のしを平ったい金びしゃくにのせ、ナースチャは入口へ行った。
「どなた?」
いきなり開けるなと、ナースチャはきびしく云いつけられているのであった。
「開けて下さい。部屋を見に来たんですから」
それは全然聞きおぼえのない男の声であった。ナースチャは、戸に手をかけたなり怒った声で、
「誰です、そこにいるの?」
と云った。部屋を見る人間がいるなんて、ナースチャは聞かされていなかった。
「心配なさるな、アンナ・リヴォーヴナのクワルチーラでしょう?」
「ええ」
「部屋を拝見に来たんです。開けてくれればいいんです」
午後二時半で、家はナースチャひとりであった。そればかりか建物全体が一日じゅうで一番しんとして人気のない時刻だ。ナースチャはだんだん気味悪くなり、戸の外の気配をきき澄した。
外の男は足をふみかえたり、もそもそしていたが、こんどは拳でトントン戸をたたいた。ナースチャは、内から前垂の端をつかんで叫んだ。
「行って下さい。知らない人に戸を開けることなんて出来ないんだから。アンナ・リヴォーヴナはお留守ですよ」
「強情ぱり」
そう云う声がし、つづいてコンクリートの階段を降りる足音がした。――悪魔奴《チヨルト》、どいつを連れていったんだ!――ナースチャは台所へ戻り、火のしに木炭を足し、サモワール用の小煙筒をしかけた。ナースチャは、満足を感じながら、ふつふつと小さいおき[#「おき」に傍点]の落ちたのを一枚の仕上った敷布の上から吹きはらった。アンナ・リヴォーヴナは、ナースチャが洗濯上
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