手だと云って、ひどくほめた。ナースチャもほめられれば嬉しかった。ナースチャが来たては中国人の洗濯屋に出していたこの大敷布までいつか彼女が洗うようなことになった。洗濯屋に負けず綺麗だと云われるために、若いナースチャは過分に労力を費すのであった。
 十五分もたったころ、アンナ・リヴォーヴナの声が入口でした。
「さあさあ、どうぞこちらへ」
 ナースチャは台所の戸からのぞいた。アンナ・リヴォーヴナのうしろから、バンドつきの外套を着て書類入《ポルトフェリ》を抱えた山羊髯の小男が、すべるような足どりで入って来た。男はナースチャを見つけると、ちょっと鳥打帽子のひさし[#「ひさし」に傍点]に指をかけ、いやに丁寧に、
「こんにちは」
と云った。さっきの男だろうか。ナースチャがまごついていると、その山羊髯の男は唇だけで薄く笑いながら、
「アンナ・リヴォーヴナ、あの娘さんがさっきわたしを入れませんでしたよ」
と云った。
「まあ、どうしたのさお前、御挨拶をおし。田舎のお嬢さん[#「お嬢さん」に傍点]ですが、それはよく働きますの」
 アンナ・リヴォーヴナは愛嬌よくナースチャに近よって肩をたたいた。
「お互に仲よし、ね。親子のようにやっています」
 ナースチャは、つっ立ったまま二人が食堂に入るのを見送り、肩をしゃくり、台所へ戻った。男の水のように冷たくて、ねばっこい瞳がナースチャを不快にした。男は唇で笑ってアンナ・リヴォーヴナに話しながら、眼でじっと睨んだのであった。
 男は本当に部屋を借りるらしかった。パーヴェル・パヴロヴィッチが書斎のようにしていた小室へ、先週大工が来て棚を作った。その室をアンナ・リヴォーヴナは男に見せた。壁をとおしてナースチャのところへ話が聞えた。
「ちょっと失礼、この寝台はこっちの壁へつけた方が勝手なように思われますな」
「それはどうぞ御勝手に、わたしどもあなたが居心地よくていらっしゃればなによりなんですから」
 床の上をすべるような気ぜわしい靴の音。
「ごめん下さい、こっちは台所ですか」
「ええ、ですけれど」
 アンナ・リヴォーヴナがいそいで答えた。
「決しておじゃまはさせません。朝はどうせあなたと御一緒時分ですし、わたしども夜だって早いんですから」
「|それは結構《ラードノ》。……もう一分間どうぞおじゃまさせて下さい。あなたんところに大きな絨毯はありませんか」
 男を送り出すとアンナ・リヴォーヴナは頭をふりふり食堂へ戻った。夜、リザ・セミョンノヴナのところへ茶を運んだ時、ナースチャは、
「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ」
 例の、もう散らかりかけている小机の隅へ膝をついた。
「今日、なんて男が室を借りに来たか! なにか云うたんびに一々ちょっと失礼だの、ごめんなさいだのくっつけるんですよ、そのくせ、机が二寸長すぎてもいけないんだって!」
 肌の綺麗な顔を少し反らせ、湿っぽくて臭そうなナースチャの綿繻子の前垂を眺めながら、リザ・セミョンノヴナはきいた。
「もうきまったの」
 ナースチャは田舎女らしく目まぜをしてささやいた。
「アンナ・リヴォーヴナはちっともその男を好いちゃいないんです。ちゃんとわかってる。――でもお金があるんですよ、半年分払うんですって」
「ふうん」
「あの山羊髯!」
 リザ・セミョンノヴナは無頓着に云った。
「いいさ、そんな男の細君になる女だってあるんだから」
 出がけにナースチャが戸を開けると、廊下で鋸の音がした。
「なにがはじまったの」
「ごらんなさい、パーヴェル・パヴロヴィッチが机を二寸ちぢめているんですよ」

 男は越して来た。台所に引っこんでいたナースチャが風呂場へ行って見たら、風呂場の壁へ特別彼用のニッケル製手拭掛と、歯磨ブラシ、コップなどのせるやはりニッケルの道具が取りつけられていた。男は自分用の茶碗を持って台所へ行こうとして小熊の剥製や帽子掛のある廊下でリザ・セミョンノヴナに出喰わした。猫背ですべるように歩いていた彼は、素早く歩を横に移して壁ぎわにより、ぴったり脚をそろえて立った。
「こんにちは」
「こんにちは」
 行きすぎようとするリザ・セミョンノヴナを遮って、
「一分間《ミヌートノ》おじゃまさせていただきます。あなたもここにお住いですか」
「ええ」
「|それは結構《ラードノ》。どうぞあなたの美しいお手を――わたしはオルロフ、経済をやっています」
 リザ・セミョンノヴナは手の甲を接吻させ、自分の名は云わず室に入って勢よく戸を閉めた。
 オルロフはこれまでアンナ・リヴォーヴナの食堂にあった家で一番いいスタンドも借りて自分の部屋へ据えた。彼は二つの葡萄酒コップを持っていた。葡萄酒コップは茶がかった緑色で台にグリグリ飾のついた玻璃《はり》であった。朝ナースチャが、彼の茶碗に茶を入れて運んで行くと、「バルザック」とレッテルの貼ってある白葡萄酒の瓶の横にそのコップがあって、オルロフ自身は山羊髯をなで、布張の椅子にいる。彼は目を離さずナースチャの顔を見て云った。
「ナースチャ、コップを洗ってくれるね」
「よろしい《ハラショー》」
「もしお前がこわしたら、くびり殺すからそのつもりでいなさい」
「…………」
「わかったか」
「わかりました」
 ナースチャは、ぷりぷりしてコップを盆にのせるのであったが、心のうちでは恐怖を感じた。それを洗って元に戻すまで、オルロフの水のように冷たいねばっこい眼付がつけて来るような気がした。
 リザ・セミョンノヴナとオルロフはすべてに正反対であった。例えばリザ・セミョンノヴナは室掃除のことでいつか小言を云ったことがあるだろうか。南京虫がくった朝だけ、リザ・セミョンノヴナは、
「ごらん、ナースチャ」
 柔らかな肢《あし》でも手でも、赤くふくれたところをナースチャにつきつけて云うのであった。
「|恥しくないかい《ニエ・ストィドノ》」
 アンナ・リヴォーヴナが寝室の戸棚へしまっておくミヤソニツカヤ通のおそろしい臭いの南京虫退治薬をまけと云うだけのことなのであった。
 オルロフのいるうちに、なるたけ彼の部屋は掃除しなければならない。オルロフは室を去らず、ナースチャが机の上をいじっている時に、椅子の上から、椅子の下をはくときは衣裳棚の前に立って監視した。
「どうぞ御親切に、ナースチャ、その暦はインキ壺の右の肩のところへおいて下さい」
 または、
「あれが見えないかね、可愛いナースチャ」
 猫背のオルロフが水のような眼で見ているところは寝台の下で、鞄の端に一条の糸屑が引っかかっているのであった。

        九

 十二月になった。日が短くなって、モスクワには毎日雪が降った。
 頭からショールをかぶったナースチャは脚の間に石油罐をおき、歩道に立っていた。石油販売所はまだ売りはじめない。雪の積った燈柱の下にトラックが一台いた。そのトラックと石油販売所の入口にかけて歩道を横切り階子《はしご》のようなものがかけられていた。トラックの上の男が石油の大きな樽をその階子にのせた。歩道にいる男がそれをころがして店へ運びこむ。石油販売所の内部は暗くがらんとしている。陰気な石の壁の上にも石の床にも石油のしみと臭いがある。トラックからおろす石油の樽も油じみて黒い。その樽に雪がついていた。
 雪は細かく、しきりに降る。
 石油販売所の石段から、買いての列は町角のタバコ売店《キオスク》の前まで連った。女ばかりであった。ナースチャの後には石油焜炉《プリムス》を下げた婆さんが立っていた。ナースチャの前には、若い娘が繩でつるしたガラス壜を歩道において、壁にもたれ、一心に本を読んでいる。ショールからはみ出した娘の前髪に雪がちらちらついた。粉雪をとおして遠くに、アルバート街の赤と白で塗った大教会の塔が美しく眺められる。
 ナースチャはバタも買わなければならなかった。彼女は四十分も待っているのだ。ナースチャは、うしろの婆さんに、
「わたしちょっと買物をしてくるから、番おぼえてて下さいね」
と頼んだ。
「罐おいてくから、どうぞ見てて下さい、お婆さん」
 石油焜炉《プリムス》を片手に下げながら婆さんは、往来から拾った吸いのこりのタバコをふかしていた。
「よしよし、見ててやるよ」
 バタとジャガいもを籠に入れ、籠は腕にひっかけ、外套のかくしから向日葵の種を出して食べ食べナースチャが戻って来ると、石油販売所の人だかりは一そうひどくなっていた。ただの通行人は、そこまで来ると、車道へおりて行った。ナースチャが自分の番の場所へ立とうとすると、さっきはいなかった太った紫のプラトークの女がそばにいて、
「女市民《グラジュダンチカ》! どうぞ順にならんどくれ、わたしはお前さんより前に来ているんだよ」
と叫んだ。
「なぜさ。わたしはさっきからここにいたんですよ」
 石油焜炉を下げてタバコをのんでいた婆さんもどこかへ行って見えなかった。ナースチャはもう一つうしろの女を証人にしようとした。
「ね、お前さんだって知ってるねえ」
 茶色の帽子をかぶった女は、外套の高い襟の間から鼻先だけ出し、つまらなそうに答えた。
「知らない」
「うしろへおいで。ごまかしたって駄目だよ、|女市民さん《グラジュダンチカ》」
「お前ここへ立っといで、いいから」
 そう云ったのは、ナースチャの前で本を読んでいた娘であった。
「この人は、はじめっからここにいたんです。わたしが知ってる。罐もある――ごらん」
 ナースチャは再び罐を足にはさんで立った。娘も本を読みつづけた。
 ナースチャは、向日葵の種を前歯で破って殻を唇の間からほき出しつつ、娘の本をのぞいた。読んでいるページの上に、どこか図書館の紫のゴム印がおしてあった。ナースチャはしばらく眺めていて、きいた。
「面白い、その本」
「うん」
 ナースチャは、吐息をつくように云った。
「わたしんとこにはなにもない」
 指をページの間にはさんで本をとじ、娘はナースチャを見た。
「なぜ?」
「なぜだかそうなんです」
 ナースチャは規則正しく、速く向日葵の種の殻をほき出しつづけた。娘は、石油販売所の入口の群集を見た。
「どうしたんだろう、今日は」
 往来を映画の広告車が五台つづいて通った。赤塗のゴム輪の上に、赤坊を抱いた女の顔の大写しと、火事場の焔のなかに働いている消防夫の写真が掲げてある。車を押す男たちは、降る雪にさからって首を下げ、ならんで電車路を横切った。
 娘が、
「あれは面白いよ」
と云った。
「みた? お前」
「いいえ。……わたし映画《キノ》大好きだけれど高くって――それにわたしいつも独りで行かなけりゃならないんです。みな友達づれだのに、はじめっからおしまいまでわたし黙って坐ってるんです」
「どこかに働いてるの」
「ええ」
「組合《ソユーズ》に入ってないの、お前」
 ナースチャは、拇指のつけ根みたいなところで口のはたをふきながら娘を見た。ナースチャはきかれたことを理解しなかった。
「組合《ソユーズ》……どんな」
「ナルピット」
「そこへ入ると映画がやすくなるんですか」
「わたしいつだって十五カペイキか二十カペイキでみている」
 やっと石油が売り出され、列は少しずつ前進しはじめた。娘は繩で壜をつるし上げながら云った。
「わたしもう二年組合に入って、夜は勉強しているし、朝九時から夕方五時ぐらいまでの働きだし、満足してるわ」
 壜へ石油をつめてもらうと、娘は、外套に雪をつけたまま、ナースチャの横を通りぬけて先へ出て行った。

 村での話とはちがって、ナースチャがいつくと、直ぐ二人も借室人《クワルチラント》が入った。その一人が、直接の主人よりナースチャになんだかおっかぶさって(悪魔《チヨルト》に|さらわれろ《ヴァジミー》)泣きたい気持にさせるのも仕方がないとする。洗濯物のふえたことも、このごろは食物ごしらえをほとんど一人でしなければならなくなったこともまあいいとする。ナースチャを苦しめるのは、この森の樹より人間の多いモスクワで自分が、まるっきりの独りぼっちだという事実であった。
 アンナ・リヴォーヴナは不親切ではな
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