二度くらいしか肉入のスープなど食べなかった。)
「それごらん!」
 夕立の水たまり、そこにいまは日光と青葉のかげが爽やかにチラチラしている上を越しながら、アンナ・リヴォーヴナは陽気にナースチャに断言した。
「もうちゃんと立派な女中さんじゃないの!」
 主人は技師で、大きい娘はもうお嫁に行ってしまっていて、家は暇なこと、月給は十三ルーブリということをアンナ・リヴォーヴナは説明した。
「わたしはいまのようにしているよりいいと思うね」
「…………」
「どうしたのさ黙りこんで……ああ、別れたくない人がいるのね?」
「伯母さんに話して下さい、アンナ・リヴォーヴナ!」
 ナースチャはとびつくような本気さで云った。
「どうぞ伯母さんに話して下さい。わたしは行きたい! 本当に行きたいんです!」
 ナースチャのそばかすのある顔が急にみっともなくのぼせて、彼女は涙を頬っぺたの上に落した。
「泣かないだっていいのに、おかしなナースチャ!」
 モスクワでは職業組合《プロフソユーズ》に入る女中が多くなった。職業組合員《チレン・ソユーザ》の女中は、まるで役人でも頼むようにやかましい証書を交換したり、一つ間違うと訴訟を起したり、アンナ・リヴォーヴナにはひどく居心地わるかった。それにせっかく四五月経ってなれたと思うと六月目には出てしまうものも多い。職業組合員《チレン・ソユーザ》になるには六ヵ月働いた上でなければならず、組合員になると、アンナ・リヴォーヴナの利益とは関係ない利益が彼女たちにあるのであった。ナースチャは職業紹介所《ビルジャ・トルダ》から来る娘でなく、田舎の原っぱから真直ぐ自分の家へ来るというだけでも、アンナ・リヴォーヴナは満足だった。

「可愛いムーシェンカ」
 アンナ・リヴォーヴナは娘へ書いた。
「この間は手紙をありがとう。坊やの歯々《はあは》がとうとう生えたってね。おめでとう。わたしは本当にうれしいよ。ソヴェトのわたしの孫の歯もやはりキリストさまのと同じに前歯から生えることが確められて。
 イワン・ドミトリィッチさんは相かわらず会議《ザセダーニエ》会議《ザセダーニエ》かい。昔の妻は良人に猟に出かけられてよく淋しい思いをしたものです。いまの妻は会議に良人を奪われる。会議が猟よりわるいところは、会議に季節《セゾン》がないことと、猟師小舎でのやき肉のかわりにお茶のぬるいのとサンドウィッチで夜の十二時五十分までタバコでもうもうした席に坐っていなければならないことです。まして猟には、あのあぶなかしいエナメル靴をはいた秘書役などと云うものはついていなかったんだからね! (だがイワン・ドミトリィッチには、くれぐれもよろしく伝えておくれ。わたしは母親の本能で、彼がそうざらにはないお前の良人なのを知っているんだからね)
 さて、わたしもいよいよ明日ここを引きあげます。例年の通り日やけと散歩でつぶした靴の踵のお土産のほかに今年はちょっとした掘出し物がある。あててごらん! 女中がつれて帰れるらしいのです。いまのモスクワで、身許のはっきりした田舎出の女中は、人造絹糸でない絹ものと同じくらい珍しいじゃあないか。大して気は利きそうもないが、お前も知っているサーシュカね、あれのように、またたく間に三本も赤葡萄酒のびんをひろくもないユーブカの間へちょろまかすような芸当のないのもたしからしい(孤児《みなしご》だから面倒でないし、辛棒もするでしょう)もし――
 アンナ・リヴォーヴナは、もしお前の方で欲しければと書きかけたのを消し、
 ――もし眼鏡ちがいでなかったら、どうぞお前もよろこんでおくれ」
と結んだ。
 下宿の夕飯後、大きな鏡のある客間の長椅子で、アンナ・リヴォーヴナは手紙のその部分を面白そうにニーナや技師の妻ユリヤ・ニコライエヴナなどに読んできかせた。(彼女の左の手首から下っている袋のなかにある、手紙のもう一枚の方には、ユリヤ・ニコライエヴナの夫である頭の禿げた電気技師が、妻の留守の夜、どんなにバタンと閉めた戸をまたそっと開けてニーナの部屋へ忍んで行ったか、翌日二人がどんなに人目をかまわず、食べかけたパイを皿ごととりかえっこして食べたか恐ろしい事実[#「恐ろしい事実」に傍点]を書いてあるのであった)
 アンナ・リヴォーヴナの少しふるえを帯びた声の合間合間にニーナは、
「素敵! 素敵!」
と叫んだ。
「なんて愉快な機智にとんだお手紙なんでしょう! 本当にわたし母にきかせてやりたい。こんな面白い手紙をもらう娘さんも世間にはいらっしゃるんですものねえ。まったくゾーシチェンコと合作がお出来になるわ、ねえ、ユリヤ・ニコライエヴナ?」
 小さい白い布に刺繍をしながら、歯からもれる声でユリヤ・ニコライエヴナは、
「さあ」
 やや重く答えた。
「私はゾーシチェンコを知っているけれど、なんだかがさつなひとで……わたしは好きでありませんよ」
 下宿へ食事だけしに通って来る小柄な軍医が、下から議論の中心になったゾーシチェンコのとじの切れた短篇集をもって来た。彼は「恐ろしき夜」を女達に朗読しはじめた。

 この時間に、村端れの仕立屋タマーラの窓からランプの光が夜の村道までさしていた。
 ランプの真下で伯母がラシャの裁物をしている。明日立つナースチャが隣室からの光りで戸口のところだけ明るい台所で、大箱の蓋を開け、荷ごしらえをしている。わずかの下着と、二枚の冬服と一枚外套があるばかりであった。いままで、その上に毎晩ナースチャが寝て来た箱のなかには、まだいくらか古着があったが、どれも小さくなったり、きれていたり、役に立つのはなかった。
 シューラが、箱の底をほじくって、すり切れた、誰かの古い狐の皮を引ずり出した。
「いいもの! いいもの! さあ、ナーシェンカ、これもつめといでよ」
「おやめよ」
「なぜさ! モスクワは寒いよ、ホラ!」
 狐の皮を自分の頸にまきつけ、シューラはしな[#「しな」に傍点]をしてナースチャのぐるりを歩きまわった。
「いい襟巻だよ」
 相手にならず、洗ってあるのや洗ってないのや靴下をつかんで麻袋につめこんでいたナースチャは、溜息をつき、手の甲で額をこすり箱にもたれて坐ってしまった。ややしばらくそのかたちのナースチャを眺めていたシューラは、狐の皮をぬぎ、うしろ手のままそろりと箱のふちへずりのぼった。ナースチャは動かぬ。シューラはよほど経ってからこごんで、小さい声でよびかけた。
「ナーシェンカ」
「…………」
「お前……ねえナーシェンカ、こわくない? 行っちゃうの……」
「…………」
「ね、ナーシェンカ、こわくない?」
 箱からぶら下っているシューラの骨っぽい少女の脛が、いきなりナースチャの若々しい腕で抱きしめられた。
「黙ってて! 後生だから」
 ナースチャはさっきからなんとも云えない心持なのであった。伯母の頭の上にある真鍮の吊ランプも、夜の台所の匂いも、なにもかにもふだんと変らないのに、自分だけが行ってしまって帰らないというのは、なんと妙な、切ない心持であろう。ナースチャは、暗いうちでさらにシューラの脛を抱きしめ自分の額を押しつけた。この世で、これだけしか抱けるものはなかった。
 その心持がシューラに通じた。シューラは、ナースチャの髪をなで、むせばないように口をあけて泣いた。
 隣室では、ランプの光がさし、はさみの音がする。ランプの光はぼろ[#「ぼろ」に傍点]のかたまりのようにナースチャをかげにおき、シューラの金髪の一部分だけをせまく射るように照らしつづけた。

        六

 ソフィヤ村のナーシェンカは市《まち》に出た。
 ナースチャは電車にのっている。電車は二台連結だ。ナースチャはひろげた脚の間に麻袋をおき、あとの車にのっている。アンナ・リヴォーヴナはナースチャの隣にかけ、かばんをそばにおき、その上に肱をついて眼をつぶっている。電車は午前九時すぎのモスクワを行くのだ。ナースチャは朝日のあたる窓に向って、顔をしかめながら外をみた。大きいまるで見知らぬ都会の景色のなかでナースチャになじみのあるのは向日葵《ひまわり》の種売りだけであった。朝のところどころの露店で、五カペイキのコップは向日葵を盛って厚ぼったく光った。
 電車の窓の下をトラックが通る。トラックには三人労働者がのっていて、あっち向きに電車を追いぬきながら、窓にあるナースチャの顔を見つけ、互になにか云って笑った。
「おーい、こっちへ乗ってきな!」
 怒鳴りつつ去った。紫と白の太い縞シャツを着た、若い男の笑顔を、ナースチャはいい男だったと思った。
 樹の枝でつくった平べったい檻に鶏を沢山入れ、山のように積んだ荷馬車が行った。下積みの檻は、上からの重みでひずんで、一羽雄鶏が苦しそうに檻のすき間から首を外へ突出していた。
 アンナ・リヴォーヴナの家では、どんな正餐《アヴェード》を食べるのであろうか?
 道普請だ。電車はのろのろ進む。……ナースチャはなんだかちょっとぼんやりした。
 やがて教会の金の円屋根が光って見える広い通りへ出た。からりとして明るい往来の上に、一台柩馬車がいた。柩馬車は黒い。棺も黒い。花もなくひいて行く。後からプラトークをかぶった女が二人、年とった女を左右からかかえて歩いていた。柩馬車の御者台には、御者とならんで十一二の男の児が冬外套を着てのっかって行く。
 窓からのり出してナースチャはその葬式を見送った。その時ひろい街の上にあるのは朝日とその葬式ばかりで、いつまでもいつまでも馬車にのっかって行く男の児の外套を着た背中が黒くぽっつりとかなたに見えるのであった。……ナースチャは窓をはなれ、坐りなおし、帳簿つけをしている女車掌の胸につり下っている、テープのように巻いた切符を眺めた。切符は赤、黄、水色、白――電車はながい。

        七

 クレムリン城内と向いあって、四角にモスストロイ(モスクワ土木課)がある。
 パーヴェル・パヴロヴィッチは五年間、歩いてその三階へ通いつづけた。出かける前に、彼は火傷しそうに熱い茶を受皿にあけて飲んで、バタつきパンをたべて、タバコを吸いながら水色の技術制帽を外套の袖口で一二へんこすってかぶるのであった。
 ナースチャは一時間半前に、台所の寝台から起きた。ソフィヤ村の伯母の家でナースチャの寝床は大箱の上だった。ここでは箱でなく、台所の壁から一枚板が下りた。ナースチャはその上へ掛物にくるまって眠るのであった。
 パーヴェル・パヴロヴィッチが、茶をのんで窓越しに並木道の菩提樹《リーパ》の梢を眺めている間に、ナースチャはニッケル盆にコップと薬罐とバラ模様の急須をのせ、食堂の隣室の戸をたたいた。
「入ってもよござんすか」
 直ぐ、
「お入り」
と返事のある時もある。いつまでも返事のない時、ナースチャは、ドンドン戸をたたいた。それはきっとそうやってたたかなければいけないのだ。鍵があく。
「おお眠い。一たい何時? いま」
 ナースチャは丁寧に腰をかがめてテーブルへ盆をおきつつ答える。
「八時十分です」
 リザ・セミョンノヴナは裸足のまま寝台の前の小さい古い絨毯布の上に立っていた。あくびをし、柔かい金髪のおかっぱを両手でもしゃくしゃにこねまわし、もう一つあくびをしつつナースチャの肩へよっかかった。
「ナースチャ、鬼よ、お前! たったいっぺんでいいからうんざりするほど寝かしといてくれればいいのに!」
 ナースチャ自身は黒い髪をたっぷり持って首の上に重く丸めていた。彼女には、この金髪の、足の裏まで柔いみたいなリザ・セミョンノヴナが好もしかった。リザ・セミョンノヴナはナースチャが来て半月後、アンナ・リヴォーヴナが出した貸間広告で来た銀行員である。
 リザ・セミョンノヴナは、
  脚をぶらぶらふりながら、
  わたしは樽にかけている。
  コンムニストだということは
  云ったげようか
  とても、陽気だ。
 流行歌をうたい出し、ナースチャの顔のなかになんともしれぬながしめ[#「ながしめ」に傍点]を与え、麻の手拭を肩にかけて洗面所へ出かける。ナースチャもついて室を出て、
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