栓からしたたる水の音がきこえるだけであった。
ナースチャは、踏台をして高い棚の奥から、古びた樺細工の鞄をおろした。布団やなにかと一緒にこれも今朝コンクリートの床の上で警察の犬に嗅がれたものだ。膝の上に鞄をおき、ふたをあけ、ナースチャは、縁に赤い水玉模様のついたけちなハンカチづつみをとり出した。死んだ母親がナースチャにくれた聖像《イコーナ》であった。聖像は、ほんの小さい二寸角ばかりのもので、なんだかわからない古い厚い板に、金もののキリストと聖者がついていた。キリストも聖者も目鼻はなかった。金属板の上に簡単な直線で体と顔面の輪廓だけ刻まれている。ナースチャは片手でその聖像を持ち、片手で自分の胸の上に十字を切った。
明日早朝焼かなければならぬ肉入パンの種がこしらえてある鉢を料理台の上で片よせ、ナースチャは、その小さい聖像を壁にもたせておいた。三カペイキの小蝋燭の燃えさしをさがし出し、ボール紙の切端に蝋をおとして立て、二本の蕊に火をつけた。自分の大さにつり合った蝋燭の焔を受けて、聖像のキリストと聖者とはうれしげに台所のなかで輝いた。ナースチャは、本当の聖壇の前でするように、聖像の前に立ち、
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