かった。しかしそれはアンナ・リヴォーヴナが、親切にしようと思っている間だけのことであった。もし自分が病気になって働けなくなったらどうなるか、ナースチャは感じていた。アンナ・リヴォーヴナは自分を彼女の借室《クワルチーラ》の台所の隅においてはおかないであろう。頭のなかにはるかに小さくソフィヤ村のひろい原っぱや、原っぱのかなたに動かぬ赤い貨車の景色などが浮んだ。白樺の生えたあの二階家で、伯母がよくも自分を養っていてくれたといまは思われた。働きがなくなったと云ってそこは帰れるところではない。ナースチャは仲間がほしかった。その仲間のほしい心持を話す友達さえないということが、このモスクワであり得るだろうか。
 モスクワだから、それはあり得た。ナースチャがたまに夜映画から帰ると、アルバートの広場で通りすがりの若い男が耳のそばで、
「|行こうよ《パイディヨム》」
とささやいた。ナースチャがその若ものの顔を見定めずに通りすぎるように、その男もナースチャの顔をはっきり見もせず、麦酒屋《ピブナーヤ》の窓から片明りのさす歩道でささやくのであった。

        十

 入ったばかりのところは、がらんとした
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