ゴム印がおしてあった。ナースチャはしばらく眺めていて、きいた。
「面白い、その本」
「うん」
 ナースチャは、吐息をつくように云った。
「わたしんとこにはなにもない」
 指をページの間にはさんで本をとじ、娘はナースチャを見た。
「なぜ?」
「なぜだかそうなんです」
 ナースチャは規則正しく、速く向日葵の種の殻をほき出しつづけた。娘は、石油販売所の入口の群集を見た。
「どうしたんだろう、今日は」
 往来を映画の広告車が五台つづいて通った。赤塗のゴム輪の上に、赤坊を抱いた女の顔の大写しと、火事場の焔のなかに働いている消防夫の写真が掲げてある。車を押す男たちは、降る雪にさからって首を下げ、ならんで電車路を横切った。
 娘が、
「あれは面白いよ」
と云った。
「みた? お前」
「いいえ。……わたし映画《キノ》大好きだけれど高くって――それにわたしいつも独りで行かなけりゃならないんです。みな友達づれだのに、はじめっからおしまいまでわたし黙って坐ってるんです」
「どこかに働いてるの」
「ええ」
「組合《ソユーズ》に入ってないの、お前」
 ナースチャは、拇指のつけ根みたいなところで口のはたをふきなが 
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