て来た。台所に引っこんでいたナースチャが風呂場へ行って見たら、風呂場の壁へ特別彼用のニッケル製手拭掛と、歯磨ブラシ、コップなどのせるやはりニッケルの道具が取りつけられていた。男は自分用の茶碗を持って台所へ行こうとして小熊の剥製や帽子掛のある廊下でリザ・セミョンノヴナに出喰わした。猫背ですべるように歩いていた彼は、素早く歩を横に移して壁ぎわにより、ぴったり脚をそろえて立った。
「こんにちは」
「こんにちは」
 行きすぎようとするリザ・セミョンノヴナを遮って、
「一分間《ミヌートノ》おじゃまさせていただきます。あなたもここにお住いですか」
「ええ」
「|それは結構《ラードノ》。どうぞあなたの美しいお手を――わたしはオルロフ、経済をやっています」
 リザ・セミョンノヴナは手の甲を接吻させ、自分の名は云わず室に入って勢よく戸を閉めた。
 オルロフはこれまでアンナ・リヴォーヴナの食堂にあった家で一番いいスタンドも借りて自分の部屋へ据えた。彼は二つの葡萄酒コップを持っていた。葡萄酒コップは茶がかった緑色で台にグリグリ飾のついた玻璃《はり》であった。朝ナースチャが、彼の茶碗に茶を入れて運んで行くと、
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