停車場から一露里の道中でうっすり埃をかぶった大よそゆきのエナメル靴の上から、草鞋《わらじ》のようなカバーを麻紐でくるぶしにくくりつけ、静かに力づよく押しあいながら、エカテリナ二世宮殿の毛氈の上を歩いた。彼らが、支那皇帝がこの精力的な女皇に贈ったという堆朱《ついしゅ》の大瓶《おおがめ》を眺めている間、そしてこのたいして美しいとも思えぬ瓶一つのために八十年間三代の工人が働いたという説明をきいて、ぼーっと頭のなかにその長い歳月についやされた工賃を反射させている時、別隊のプーシュキン見学団が、宮殿の外の往来で日にやけながら、ある家屋の軒を見上げていた。
「諸君《グラジュダニン》! ここがわれらの大詩人プーシュキンの学んだ貴族学校長、エンゲルガルトが住んでいた家であります」
 十数人の男女が頤《あご》をそろえて見上げたその水色石造建築物の外観は極めて平凡で、歩道に向った下の窓の奥に「下宿《パンシオン》・レオノヴォイ」という札が出してあった。白いカーテンの上からゼラニアムの赤い花が見える。
 見学団から見えぬその家のテラスで、五人の男女がカンバス椅子にかけていた。モスクワから一日おくれに到着する「
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